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更新日 2010-01-19

2008/9/20(土) 物質経済に戻ろうじゃないか

 「物質経済に戻ろう」なんてことを書くと経済学の先生たちに説教されそうです。私も物質経済に戻ったところで問題の解決になるとはこれっぽっちも思ってません。そもそも今回の金融危機において、金融の何が危機に陥っているのか、私にはまったく分かってないのです。

 だから、その対極としての物質文化を持ち出すわけ。バブル経済の崩壊と、今回の金融危機を経験した今となっては、インフラストラクチャーとしてのサブシステンスから乖離したスーパーストラクチャーとしてのキャッシュエコノミーの肥大と自己組織化が、結局のところ「突かれなければ割れない泡」なのだということを教えてくれたように思います。

 もちろん経済学者の目から見れば、私の理解は素人過ぎるでしょうが。

 そもそも、サブプライムローン問題というののワケ分からなさったらないです。信用度の低い(サブ-プライム)人々へに融資をするが、その将来的な金利の上昇そのものを証券化して売る、そしてそのリスクすらも証券にして売る。なんでこんなことが出来るというのか。わかりますか? 

 ある池に、メダカとオタマジャクシがいました。メダカはそれ以上大きくなりませんが、オタマジャクシは無事に育てば手が出て足が出て、カエルになれます。

 よって可能性があるのはメダカよりオタマジャクシであった、ということで、人々はオタマジャクシに重点的に餌を与えることにしました。条件は「大きなカエルになったらその肉を食べさせてもらえる」權利です。その權利を人々は「カエル肉お裾分け券」というチケットを買い入れることで手に入れました。

 その一方、オタマジャクシに万が一の不幸が訪れてザリガニか何かに食べられてしまう危険もあります。じゃあそのリスクも売っちゃえ! ってんで、人々は「オタマジャクシが死んじゃった場合」にもお金をかけます。

 ところが、そのオタマジャクシは大きくなるどころか、カエルになっても小さいまま。なぜならオタマジャクシは、ちっぽけなアマガエルの子供だったからです。

 餌を与えた人々はガッカリし、えさ代をカンパした人たちも損をしました。それどころか、「死んじゃった場合」に掛けていた人々も損をしたのです。オタマジャクシはアマガエルとなって天寿を全うしたのですから。


 どうでもいい寓話めいたものを思いついてしまうくらい、今回の「金融危機」は、ある意味で理解不能、ある意味で非常に分かり易い展開だったかも知れません。

 一度システムとして走り出してしまえば当分はフリーズもせず、再起動も必要もなく走り続けるOS、それが「文化」だとしたら、システムとしての文化はある時点でその物質的基盤すらも必要としなくなってしまうのでしょうか?

 そうではない。ということを身を持っているためにも「物質経済に戻ろうじゃないか」と口走ってみるのもいいかもしれませんね。



 

2008/8/14(木) それでいいのか

私は赤塚不二夫のマンガをほとんど読んでいませんが、テレビアニメの「天才バカボン」はよく見ていました。とくに第1期のほうがギャグがきつくて好きでした。
 
バカボンパパのキメ台詞「これでいいのだ」は、赤塚を語る際には必ずといって良いほど参照される言葉であり、「明るい現状肯定」の発露みたいに言われることも多いみたいです。
 
でもって、世の中を見渡してみれば、「これでいいのだ」的、強制終了的現状肯定が普通になってしまっているわけです。
 
これでいいんですか?
 
これでいいのだ!
 
ほんとにそれでいいんですか?
 
バカボンパパが「これでいいのだ」と言うとき、そこには「ほんとにそれでいいのか」という含みがあって、観ている側が「ほんとにそれでいいのかよ〜」って突っ込みたくなる「ストーリー強制終了」であったように思います。
 
 
世界が八方丸く収まるわけありません。それでも「これでいいのだ」と言い切る人がいたら、「それでいいのか?」と突っ込んでやりましょう。
 
 
 
 

2008/4/8(火) ドキュメンタリーに真実味?

 
 とあるドキュメンタリー・フィルムが、国会議員の度重なる「暗黙の圧力」と、街宣車の「怖さ」に負けてか、相次いで上映中止になってるそうです。
 
 映画が政治問題化するのはごく普通のことですので、べつに驚きません。
 
 ただ、この映画についての伝えられる発言を聞いて、「?」と思うことがいくつかあるので、忘れないうちに書いておきます。
 
 まず、このドキュメンタリーが「偏ったメッセージを伝えている」という意見に対して。
 
 こういう発言をする人は、ドキュメンタリーが完全無欠に中立なプロダクトだと信じているんでしょうか? 何を撮影するか、どのカットを採用するか、どうつなげるか、どんなナレーションをつけるか、といったさまざまな選択のうえに映画が成り立っているという現実を知らないのでしょうか?
 
 ドキュメンタリーに真実味?
 
 そもそも、この映画が特定のイデオロギーを伝えているとしたら、それが100%オーディエンスに伝わるという無邪気な考えがどこから来るのか。
 
 街宣車で「言論」している人たちは、その自分たちのメッセージがオーディエンスに伝わっていると思っているんでしょうか?
 
 戦場の友情と涙の映画がこれほどたくさん作られている国で、「純粋」に英霊をなだめようとしている人たちを撮ることは、それほどイデオロギー的でしょうか?
 
 教育に携わる者としては、「メディア・リテラシーの欠如」をいかにして克服するべきかという問題を残す事件でした。

2008/2/15(金) 抜群教授、ある意味で

 
 
「東北大、「抜群教授」に特別手当 最高月20万円」 
 
 ・・・だって。すごいねえ。
 
 記事によると「正式な称号は「ディスティングイッシュトプロフェッサー」。教育や研究、社会貢献などの業績がきわめて顕著で、将来も中心的な役割を果たすことが期待される教授を任命する。学内から推薦を受けた教授の中から、学外の有識者も含む選考委員会が選ぶ。」だそうで。
 
  国立大でも、おおっぴらにヘッドハンティングができるようになったんですね。
 
 しかし、優秀な研究者=優秀な労働者、というワケではないので、こういう人事が果たしてコストに見合うものになるかどうかは、また別問題となるでしょう。
 
 とりあえず、抜群教授(ディスティングイッシュトプロフェッサーが正式名称らしい)を招いて、それによる大学の質の向上が見込まれるなら、やったらいいと思います。
 
 さて、新しい人を雇うのは、ポストが空いていればわりと簡単にできます。むつかしいのは、「優秀な人材はお金で釣れる」けれど、「売り渡す」のは結構大変だということです。
 
 以上。
 

2008/1/20(日) そんなのノルマじゃないよ。

 
 
 背景の説明抜きで行きます。聞いた話、ということで。
 
 私は「営業」というのを経験したことがないんですが、そんな私でも、これはノルマじゃないと思います。
 
 曰わく「飛び込み営業、10軒行け!」。
 
 よし、そんなに言うなら、10軒行ってやろうじゃないの。
 
 で、契約が取れたらご褒美がもらえるわけ?
 
 曰わく「行ってくれたら報酬が出ます」。
 
 ・・・おいおい。行くだけ、かい。
 
 お客を釣ってこなくても、行くだけでご褒美がもらえちゃうんだ。
 
 
 
 もちろん民間企業の話しじゃないですよ。
 
 
 
 この「ノルマ」、究極的にはもちろん「お客を釣る」のが目的ですが、飛び込んだその場で「はい、契約」じゃないから、いつのまにか「行くこと」だけが目的になっちゃったりする。
 
 で、「10軒飛び込んだ営業マン」が、それだけで偉そうにしたりする。
 
 「偉い私が営業に言ったのに、アイツは一軒も行ってない」、みたいに。
 
 
 
 もちろん民間企業の話しじゃないですよ。
 
 
 
 そうだ。
 
 このノルマ、営業圏から遠く離れたところに行けば行くほど、褒められるんだそうです。
 
 だから、「ノルマ達成」のために、旅行ができちゃったりする。
 
 
 
 行ってくるだけでOK。「パンフレットを配った」と報告すればOK。
 
 ・・・こんな会社、あったらいいなあ。
 
 
 
 ええ、あるんです。
 
 でも、そんなのノルマじゃないよ。
 
 
 

2007年12月23日 大臣裁量経費にホンネが透けてみえる。

 
研究費というのは競争して獲得するモノだ。というのがもはや常識となってしまった現在では、きっちりと見通しが立って、役に立つ事があらかじめ立証されて、いわゆる説明責任が果たせる研究にしかお金が行きわたりません。
 
ついでにいうと、実績のない人間にはお金が行かないようにもなっています。
 
研究というのは、何かを発見したり、問題を突き詰めたり、広い脈絡に置き直してみたり、あるいはデータを集めて再構成や再解釈をしてみたり、そういうことをひとまとめにして呼ぶために与えられた名前です。
 
だから、「やる前」から「やったあとの成果」が見通せるわけないのです。(しかも、これからの研究のための金の分配に「過去の実績」を問う、というのもへんな話です)。
 
人間の皮膚から「なんにでもなりうる」というiPS細胞を作った京大の先生については、エライと思う以上に「ラッキーだな」と思います。その研究だけに急遽10億円の研究予算が請求され、認められたそうで。(ニュース)
 
私たちのようなヒラ研究者にも「学部長裁量経費」とか「学長裁量経費」といった、建前上「エライ先生による独断的予算」が下されることがありますが、iPSの場合は「大臣裁量経費」なんですね。
 
この大臣が研究のことをぜんぜん分かっていないのは一目瞭然です。なぜなら、テレビカメラもいた大臣室で京大教授の訴えた「オールジャパンのチームでないとアメリカに勝てない」という言葉を、そのまんま財務大臣に伝えていたからです。10億円もの予算を急遽申請しようという人間が、なぜ自分の言葉でこの研究の必要性を訴えないのでしょうか?
 
それとも、専門のことは専門家に任せよう。ということなんでしょうか?
 
ニュースを聞きかじっただけですが、iPS細胞の研究は、ようやっと基礎の基礎研究が形をなしてきただけで、応用にはほど遠いようです。これまでは「いろんな遺伝子を投入してみて、あたりが出るかどうか試していた」段階だったわけ。
 
つまり。「何が出てくるか分からない」という段階の研究だったわけです。それがたまたま当たって、どうやら金になりそうだと判断されたらポンと10億円積み増しになったってこと。
 
ホンネが透けて見えますねぇ。文科省の。
 
 
 

2007/9/15(土) 豊かになっても、心は貧しくなりません。

 
 
 よくある俗流社会論。
 
 「モノが豊かになると、心が貧しくなる」。
 
 酒場で酔ったオヤジたちが論じる。
 
 テレビでしたり顔の評論家が言い放つ。
 
 あるいは、最近では、学界の重鎮ですら、こんなことを平気で人前で言ったりする。(実際にエライ先生が言っているのをこの耳でしかと聞きましたぜ。)
 
 たしかにモノ(=カネ)という経済の次元と、心という情感の次元とは、無関係ではありません。プレゼントをもらえれば嬉しいし、逆に、気持ちを表すために人からモノをもらったり受けとったりもする。
 
 お金が手に入れば嬉しいし、失えば悲しい。
 
 でも、私が認められるのはここまでです。
 
 だいたい、心が貧しいってどういう状態を言うのだろう? 他者のことなど考えもしない殺伐とした気分のことなのか。それとも歓びを感じられない無感覚のことなのか。
 
 「モノが豊かになると、心が貧しくなる」という俗論が語れるのは、現代の日本社会を論じるという文脈においてです。
 
 少年犯罪が増加している。なぜか、それはモノが豊かになって心が貧しくなったからだ。
 
 おやおや。でも、モノが豊かじゃなかった昔のほうが少年犯罪はむしろ多かったという説があるのはご存じないのか。
 
 貧しくなりゃあ、心が豊かになるとでも思っているのか。
 
 社会全体の経済の上下と、心の貧富がトレードオフかどうか。それは仮説として述べるのは勝手ですが、誰かがそれを語るとき、いつも結論として受けとられます。
 
 
 
 でも、そんな仮説をきちんと検証した人なんているのか。
 
 学界の重鎮も、余計なことを言わずに、自分の知ってることだけをしゃべっていれば良かったのに、ね。
 
 

2007/8/15(水) 「覚悟を強要しません」

 
 
 このところ妙に気になる言葉が、「覚悟」。広辞苑には五つの意味が載っています。
 
 基本になる第一義は「迷いを去り、道理を悟ること」という仏教用語です。
 
 「覚悟せよ!」みたいなのは、一種の闘争宣言として使われる言い方だけど、これは広辞苑でいう第5番目の意味「あきらめること、観念すること」に当たります。用例がすごい。「とてものがれぬところじゃ、−−せい」。
 
 いま気になっているのは、(広辞苑でいうと4番目にあたる)「心に待ち設けること。心がまえ。」というヤツです。「苦しいのは覚悟のうえだ」みたいな。
 
 何で気になるかというと、「○○をやるってのは、ようするに××ってことですよ。そこまでやれる覚悟があるんですか?」という言い方を、この数ヶ月でなんども聞かされたからです。個人的に言われたこともあるし、集合的に言われたことも。
 
 で、言われるたびにいちいち反発したくなるんですよね。「覚悟を決めなきゃ、ものごとやっちゃイカンのか」って。これは私がとびきり覚悟もなくふらふら生きてきた人間だから、ならではの反発なんでしょうか?
 
 反発を感じる理由は2つ。
 
 ひとつは、「覚悟はあるのか?」っていう物言い自体が、「覚悟を決められないのなら、やめておけ」というニュアンスを含んでいるために(あるいは、含んでいる、と感じられるために)、婉曲的でもったいぶった否定に聞こえてしまうという点。そんなこというなら、もっとはっきりと「私には覚悟がないから嫌です」って言えばいいのに。
 
 ふたつめは、これはひとつめと密接に絡んでいるんですが、要するにこの言い方(覚悟はあるのか!)が、覚悟という言葉の「あとには引けないぞ」感だけを増幅しているからです。よく政治家が使う「不退転の決意」のニュアンスだけを「覚悟」という言葉からひっぱりだし、そこだけを利用して、逆に相手に対して「覚悟がないなら止めておけ」と遠回しに言う。ああ、やらしい。
 
 だいたい、なんでもかんでも覚悟を持ってやらなきゃいけないんですか? 見切り発車じゃいけないんですか? 失敗しても後に引いたり軌道修正したりしちゃダメなんですか? そもそも、
 
 「覚悟を持ってやれば、なんとかなる」、そんな気合い論で通用すると思っているんですか? 
 
 そして、
 
 「覚悟があるかないかの、二者択一で人を追い込むの、やめにしませんか?」
 
 

2007年6月24日(日)  「投票で独裁者を選ぼう!」

 
 
 ひじょうに単純な話。
 
 投票で議員を選ぶ、首長を選ぶ。これは、けっして全てを一任することを意味していません。
 
 わかりますか? この単純な理屈が。
 
・・・ということで、またまた選挙ですね。
 
 あ、べつに私は独裁者を選びたいワケじゃありません。ただ、ヒトラーすらも選挙で選ばれた、ということだに知らない大人がいることに愕然としているだけです。
 
 

2007/4/23(月)「よそ者は敬遠されました」

 
 
 長崎市長選挙の開票は、なかなか息詰まるものでした。
 
78,066票 田上富久 当選
 
77,113票 横尾誠
 
19,189票 山本誠一
 
8,321票 前川智子
 
2,677票 前川 悦子
 
 当選した田上氏は長崎市の統計課長。2位の横尾氏は銃撃された伊藤前市長の長女の夫で、新聞記者。
 
 長崎では、「公示前から伊藤市長盤石」「伊藤陣営、余裕で緊張感なし」といった報道が見られていました。それくらい安定していたわけです。
 
 今回の事件は「民主主義への挑戦」といったふうに(主として政治家によって)語られていますが、報道を見るかぎりひどく個人的な殺人事件です。たまたま選挙中で、被害者が有名な政治家だったというだけで、「民主主義への挑戦」は大げさというか、紋切り型というか、単純化しすぎというか。
 
 事件がもたらしたのは、「本命不在」という事態です。伊藤さんが亡くなってから立候補した二人が7万8万票前後で接戦を演じたというのがそのことを語っています。これを見ると、そこそこ準備して挑んだ人たちは、選挙全体の中ではほんとに泡沫候補としてしか捉えられていなかったってことが、よーく分かりますよね。
 
 ところで、田上氏が当選した理由。
 
 長崎新聞によると、長崎商工会議所の政治団体が田上氏を支援した理由は「伊藤氏の身内というだけで、長崎に縁のない人間に四十五万人都市のトップは任せられない」ということだそうです。
 
 一般には「世襲批判」が田上氏を当選させたと報じられていますが、個人的には「長崎に縁のない人間に……」の部分が重いと感じています。
 
 これまた個人的な感想ですが、横尾氏の出馬会見での印象はけっして良いものではありませんでした。東京在住で、生まれは関西。出馬会見でのしゃべりも明らかに関西弁。長崎に4年間いたとはいえ、あるいは、妻が伊藤市長の娘だとはいえ、「長崎は第2の故郷」と言い切るには苦しかったです。
 
 御本人はそう思っているかもしれません。私だってすでに「長崎は第2の故郷」だと思って不思議じゃなくなってます。でも長崎の人がそう思ってくれるかどうかは別問題。
 
 伊藤前市長の長女・優子さんのコメント。「本当にありがとうございました。父伊藤一長はこの程度の存在でしたか。父は浮かばれないと思います。残念です。父の愛する長崎でこんな仕打ちを受けるとは思いませんでした」(http://news.qwe.ne.jp/?n=1177260607_newsplusより引用)
 
 この人、あるいは、この人たち。ほんとに公私混同してたんだ。
 
 部長も、局長も飛び越してしまった統計課長は、これからの4年間でどんな舵さばきを見せてくれるでしょうか。
 

2007/4/1(日)「死なない程度に、頑張ろう」

 
 考えてみたら、あれですわ。1月下旬に、えらくムカついたことがあって、その怒りの英語メッセージを載せて以来、BBBをまったく更新していませんでした。
 
 4月1日でしょ。新年度ですよね。
 
 この平成19年度からむこう2年間、めちゃめちゃ忙しい日々が続くと予想されています。先ほど、office lalombeの後継たるclassesというコーナーを立ち上げましたが、講義スケジュールを見ていてクラクラしてきましたわ、マジで。
 
 授業が週に6コマだろうと7コマだろうと、まあ、良いです。ある意味で「ノーと言えない男」っぷりを発揮して、次々と引き受けちゃった非常勤のコマ、好奇心ついでに手を付けた授業、そして毎年の定番科目。
 
 でも、これは大学教師の「教師」としての本業ですから。問題なのは、スケジュール表の空白の部分です。
 
 空白部分の半分は、授業の準備と後処理で消えます。
 
 あとの半分は、大学の業務で潰れるでしょう。書類作成とか、ちょこちょこと頼まれちゃう仕事とか、委員会とか。私はこれから向こう2年間、忙しいことで知られる「教務委員」になってしまいました。ほかにも2つの委員会を掛け持ちしてるし……。
 
 これは「オレに研究をさせないための陰謀」か? 
 
 自分の要領の悪さは、自分でよーく分かってますので、今後2年間私からは研究業績は生まれません。もはや「研究以外のことなら何でもこなす便利屋」です。
 
 どちらかといえば、ストレスが身体に影響を及ぼさないほうなんで、どんなに忙しくても禿げたり痩せたりはしないんです。過労死もないでしょう。出社拒否もしないはずです。
 
 先週、うちの大学で飛び降り自殺がありました。43歳の助教授でした。
 
 

2007/1/27(土) 「You must have forgotten what you said, I guess.」

 
(今回は、黒板に書いたことだけ。上手い具合に忘れらる術を知っている君に送るメッセージだ。)
 
 

2007/1/7(日) 悩ましいなんて、やらしい

 
 年末年始に遊んでばっかりだったせいで、いまだに呆けております。
 
 その「呆け脳」に強制再起動をかけるかのように、これから京都への出張です。飛行機、飛ぶのかなあ。
 
 なにせ、外は雨の混じる暴風模様。そのうち雪が降るだろうって。
 
 ウチから長崎空港までは、二つルートがあります。
 

(1) 昭和町まで出て、リムジンバスに乗る。
 
(2) 長与港まで出て、そこから空港行きの船に乗る。

 さて、どっちでいこうかな。いまのところ船は走っていると言うけれど、値段はちょい高めだし。リムジンバスだと昭和町まで出るのが億劫で、寒風の中バスを待たなきゃならないし……
 
 ああ、悩みどころだ……。
 
 昨今、こう言うときには「悩ましい」などという表現を使う輩を多々見受けますが、言葉の意味を全然知らないんでしょうね。
 
 「悩ましい」なんて聞いたら、私は即座に「水着の女性がとる悩ましいポーズ」とか、官能的なイメージを描いちゃいますけどね。
 
 辞書で引いても、「官能が刺激されて心が乱れる思い」のほかには、「思いわずらう気持である。気持が苦しくつらい。難儀だ。」とか「病気などのために気分が悪い。気分がすぐれない。」があるだけで、巷間で使われているような意味あいは無いんだよなぁ。
 

 「悩ましい」は、「悩む」という動詞が形容詞化されたものです。ってことは、
 「喜ぶ」の形容詞化→「喜ばしい」
 「腹立つ」の形容詞化→「腹立たしい」
 「哀しむ」の形容詞化→「哀しい(哀しましい?)」
 「楽しむ」の形容詞化→「楽しい(楽しましい?)」

 というのの延長線上にあるのですね。
 
 ちなみにこれらはみな喜怒哀楽。つまり、感情表現の動詞に限られているみたいです。
 
 したがって、この動詞+シイをむやみやたらに使うことは出来ません……いまのところ。
 

 歩く+シイ→歩かしい(×)
 食べる+シイ→食べらしい(×)
 サ変動詞もダメです。
 ウンコする+シイ→ウンコさしい(したい! って感じが伝わりますね(^_-))

 
 でも、
 

 やる+シイ→ヤラシイ

 
 が、なんとなく気持ち通じるのは不思議です。
 
 

2006/12/4(月) 「〆切を守れよ。」

 
 えーと、私も人のことは言えないんですが(汗)、今回は「〆切を守れ!」というお小言です。 
 
 ヴァーチャル・レスポンス・ペーパーの〆切は以下の通りです。
 
 長大・環境人類学(木曜) → 翌週火曜日の投稿まで受け付け
 
 シーボルト大・文化人類学(火曜) → その週の金曜日の投稿まで受け付け
 
 ということです。まさか知らない人はいないんでしょうが、毎回のように〆切を守れない人が1割くらいいますよ。
 
 かつて、私の授業のレスポンスペーパーはB6版の紙。そして、授業が終わったらその場で提出、これが鉄則でした。
 
 その後、長崎に来てからは「次回の授業で提出」というやり方を取りましたが、そういうやり方だと質問にすぐに答えられないので、今学期から投稿システムを導入した次第なんですが……。
 
 そこで、いくつか注意をしておきます。
 

(1) 〆切は守ろう!
 いうまでもないことですが、〆切は守りましょう。なんなら、締め切りすぎたら投稿できないようにする、ってことだって可能なんですよ。(これは警告)

(2) 気合いを入れて書こう!
 気合いの入っていないレスポンスが何割かあります。授業の聴き方とレスポンスペーパーの書き方については、Talk18:レスポンス・ペーパーの書き方を教えてあげよう(Non.8/2003)をお読みなさい。あまりに気合いの入ってないレスポンスは減点するぞ。(これも警告)

(3) 簡単なことだったら自分で調べよう!
 みなさんから寄せられる質問の多くは、自分で調べれば簡単に分かることばかりです。どうして自分で調べないんですか? 中には、自分で調べたことと、それに対する自分の意見まで書いてくれる人もいますよ。私はレスポンスペーパーにも点数を付けますから、どうしても比べちゃいますよねえ。(これだって警告)

(4) 授業の後で直接質問してみよう!
 レスポンスペーパーがあるおかげで、「あとで書いて送ればいいや」と思ってしまうのか、授業の後に質問に来る人がめっきり減りました。でもご存じのように、レスポンスペーパーで寄せられた質問のうち、私が答えてあげられるのはごく少数です。
 

 自分の質問が採用されるかどうか、というスリルを味わいたいのでなければ、ぜひ質問に来なさい。
 
 それから、これは特に長大の諸君に言いたいことだけど、せっかくオフィス・アワーを設定しているのだから、この時間に尋ねてきてほしいものです。オフィス・アワーの時間に、授業の質問をしに来た学生は、私が長大に来て以来数えるほど。今学期に入ってからは、ゼロです。
 
 

2006/10/27(金) 「藪からコソコソと奇襲かけるなよ!」

 
 ねずみ取りに掛かりました。運転歴20年目にして初めてです。
 
 若い頃とは違って、このごろの私は速度制限を守る優良ドライバーです。それなのに速度違反で検挙されたのは不幸な偶然が重なった結果としか言えません。
 
 不幸な偶然。
 
 場所は佐世保方面から長崎市へ向かう大村湾沿いの道、かつてのオランダ村の前でした。この道は基本的に片側一車線なのだけど、オランダ村周辺だけ1キロくらい2車線の場所があります。
 
 つまり、この道はここだけが追い越し車線の存在する場所なのです。
 
 たまたま、なんですが、ダンプカーが目の前をゆっくり走っていました。2車線になったところで、ダンプカーは左車線に入り、私もしばらく後ろに付いて走っていたんだけど、「このダンプは追い越しておいた方がよい」という判断で右側車線に入りました。
 
 ここでも、そのままのスピードではダンプを追い越せず、スピードを上げました。このときの一時的な追い越しスピードが「時速70キロ」。つまり法定速度を20キロオーバーしていたことになります。
 
 そんな瞬間を狙ってレーダー探知されるなんて……不運だ。
 
 それにしても、罪人として警察官と対面するのはほんとに嫌ですね。罪の意識がないだけに、なおさら。
 
 ダンプを追い越して左側車線にもどり、スピードを落としたところで旗を持った警官に進路をふさがれました。このときの警官Aのポーズは、なんというのか、記憶に頼って描写すると、
 
「道ばたから飛び出して、腰を落とし、赤旗を車の正面に(あたかも指さしするかのように)突き立てる」
という感じで、そのオーラからは「身柄確保!」という叫びが聞こえてくるかのよう(笑) 銭形警部だ、まるで。
 
 ったく、こっちは大島で楽しい思いをして帰ってきたというのに。ぜんぶ台無しにしてくれるよ。
 
 誘導された先は、道路からは見えない藪の中です。ここに警察車輌が3台止まっていて、警官は私が見たところ4人いたようです。
 
 ちなみに、追い越し中だったということもあるんだけど、レーダーは見えませんでした。
 
 さて、免許を持って、書類書き警官(西海警察署のナカヤマ巡査という、若くて太った男)とご対面。
 
 まずは書類書きに数分。ナカヤマ巡査が私の免許証のデータを書き写していきます。汚い字で。
 
 ナカヤマさん:ご職業は何ですか?
 
 罪人マスダ:長崎大学の教員です。
 
 ナカヤマさん:公務員じゃないですね?
 
 罪人マスダ:公務員じゃないですよ。国立大学法人です。
 
 ナカヤマさん:ってことは……団体職員ってことでしょうか?
 
 罪人マスダ:カテゴリーなんて、知りませんよ。(だんだん口調が荒くなる)
 
 ナカヤマさん:住所をお願いします。
 
 罪人マスダ:長与町三根郷……
 
 ナカヤマさん:いや、職場の……。
 
 罪人マスダ:文教町1-14。
 
 ナカヤマさん:ぶんきょうまち……と。
 
 罪人マスダ:交通違反の公文書作るのに、なんで職場のことをきくんですかっ?
 
 ナカヤマさん:ときどきなんですけど、反則金を払ってくれない人がいらっしゃるんで……
 
 罪人マスダ:ああ、なるほど。私は信用できない人間なんだっていう暗黙のメッセージですね。
 
 ナカヤマさん:(……無言)
 
 そのあと。
 
 免許を返してもらってから、印鑑を持っているかと聞かれたので、自分の車まで取りに行きました。ここでちょっといたずら心を起こして、警察車輌内にサイフを置きっぱなしにしていったのですが……
 
 すかさずナカヤマさん、不必要とも思える大声で「マスダさーん、サイフを置いたままですよ!」 うーん、敵も然るもの。私が「いいですよ、そのままで。警察は盗みはしないんでしょ?」 (周囲の警官のあいだに笑い)
 
 すごいよな、この保身あるいは未然の危機防止。
 
 サイフを残し、印鑑をとって戻ったら、警察車輌に私のサイフがあった。そこで私がいちゃもんを付けることも可能です。「おい、ナカヤマ警官。オレのサイフいじったろ」とか、そういうの。たぶんそういう事例が過去には沢山あるんでしょう。そういう厄介ごとを未然に防止するために、必然以上の大声で車内にサイフが残されたままである事実を周知させる。
 
 印鑑は二カ所に押しましたが、その前に、私が速度違反を犯したことを証明するための公的書類を見せてもらいました。それがさあ、ぺらぺらの紙に、探知機から吐き出されたレシートみたいな紙がのり付けされているんだけなんですわ。
 
 読んでみると、空欄だらけ。とくに「使用レーダー機器」の欄なんか、空欄じゃまずいんじゃないの?
 
 一応聞いてみました。「こんなに空欄ばっかりじゃ公文書としてはマズイでしょ? 使用レーダー機器の名前だけでも言ってみてよ。」 ナカヤマさんはレーダー機器の名前を、つっかえつっかえ教えてくれました。たしかに込み入った名称で、暗記しろっていわれても、すぐには無理ですね。
 
 まあ、言えただけマシか。
 
 ねずみ取りされたのは私が速度違反をしたからですので、その点については観念してるし、反則金だって払いますよ。(払わなかったらどんなことが起きるのか、見てみたい気もするけど)。だけど、いろんな面白い発見があったし、考えれば考えるほど腹の立ってくることも。
 
 速度違反の取り締まりは、なにが目的なのかはっきりしません。もちろん速度違反した車を取り締まるのは当たり前なんだけど、今回のようにレーダーを設置する場所が、いかにも速度を上げてしまいやすい場所に限定されていることからは、やはりいろんな邪推を生みます。つまり、
 
 (1) 検挙数を稼いで実績を上げる。
 
 (2) 教育的な効果を狙う。
 
 (1)は単に警察の都合です。これは邪推に過ぎないけれど、でも間違いない。ノルマがあるかどうかはともかく、検挙実績が上がらないと予算分配なんかにも影響するのでは?
 
 (2)については、まあ、ありますね。罪人扱いされれば誰だって嫌になります。
 
 ところで、手続きが済んで(お説教の類は一切なし……説教されたら言い返してやろうと思ってたのに)、自宅までドライブしてみれば、この道はずっと一車線で、これ以降一度として時速70キロを出せるような場所はありませんでした。言い換えれば、警察にとってあのポイントだけが検挙数を稼げるエリアだったわけです。
 
 釣りでいれば、あの場所こそ、釣れるポイント。
 
 私の後にも何人もレーダーに引っかかってましたけど、「獲物が引っかかって嬉しいか」とは言わずにおきました(喉まで出かかったけど……(苦笑))。
 
 いろんな不運が重なった今回の取り締まり。
 
 でもさあ、警察が取り締まれるのって、結局、こういう「可量違反」だけなんだよね、きっと。あるいは、普通の(というか並の)警察官には、数字で計れるような、あるいはマルかバツかで一刀両断できるような単純なものしか取り締まれないんですね。
 
 たとえば、自分の「たまたま」の速度違反が取り締まられるのはレーダーで計れるからだけど、長崎の、原チャリライダーのどうしようもないドライヴィングは、そういうふうに取り締まれないんです。
 
 そんな、つっかえつっかえしか型番を言えないようなレーダー機器まかせで、速度違反取り締まりしかできない並の警官が、見えないような所にレーダーを設置して、藪に警察車輌を隠して取り締まりを展開するなんて・・・しかもそのねずみ取りに引っかかるネズミが「自分」だったなんて。
 
 ちなみに。
 
 道路に飛び出して違反車両を誘導する警官Aは、道沿いの並木に姿を隠していました。
 
 そんなコソコソと……藪から奇襲かけるなよ! 
 
 

2006/9/24((日)「石器時代に戻してやる!」

 
 アメリカのアーミテージ元国務副長官(あの、引退したプロレスラーのような方です)が、2001年の同時多発テロの後、パキスタンのムシャラフ大統領に言ったとか、言わなかったとか。「石器時代に戻してやる」などと。
 
 伝えられるところでは、英語ではこんなふうだったそうです。
 
 "Be prepared to be bombed. Be prepared to go back to the Stone Age."
 
 「石器時代にもどりてぇんか、こらぁ。爆弾くらわしたるぞ!」ってタンカですね。
 
 で、ふと考えたわけです。
 
 「爆撃くらうと、石器時代にもどるンか?」
 
 この場合、アーミテージ氏が言ってるのはホンモノの石器時代生活にしてあげるってことじゃないし、まさかパキスタンを丸ごとタイムトラベルさせちゃおうっていうわけでもない。彼が言いたかったのは、石器時代、という言葉が喚起する何かです。
 
 それは何か。もちろん「原始的な生活」でしょう。
 
 爆撃する→ありとあらゆる「文明」が破壊される→ゆえに石器時代に逆戻り、ってなところでしょうか?
 
 石器時代には、打製石器が主流とされる旧石器時代と、磨製石器メインの新石器時代があるんだけど、爆撃によってもたらされるのはどっちなんでしょう? せめて鉄器時代くらいにしてあげたら……ああ、冗談書いてる場合じゃなかった。
 
 われわれ文化人類学者は「石器時代」というキーワードから、マーシャル・サーリンズの『石器時代の経済学』という本を思い浮かべます。石器時代は当然ながら狩猟採集生活の時代です。サーリンズの書いていることがほんとなら(ってか、サーリンズ自身も先行研究をネタにしているわけですが)、石器時代こそユートピアなはず。
 
 一日の労働時間はせいぜい平均4時間。栄養はきちんと2000キロカロリー以上取れるので、生きて行くには十分。余計なことには心煩わされない平和な時代。
 
 環境系の話を茶化して言えば、それこそ、環境原理主義者の中には「現代人は石器時代にもどるべきだ」と考えてる人もぜったいにいるはずです。これは当てずっぽうなんだけど、こういうことを言う人がいるとすれば、たぶんアメリカ人じゃないかしら。
 
 石器時代人ならCO2もそんなに排出しないだろうし、石油を使わないから大気も汚れない。農耕すらしないので、水資源の過剰利用もなくなる。ここまでアーミテージ氏が考えていたとしたら、ちょっとした皮肉な親切じゃないの。
 
 ・・・とここまで考えて、はたと思い当たる現実。
 
 石器時代的な生活を続けるには、絶対条件がありました。それは、人口密度が低いこと、もとい、絶対的に人口が少ないことです。
 
 もしアーミテージ氏が言ったとされる「石器時代に戻してやる」が、「人口を減らしてやる」なのだとしたら……結局、爆撃でみんなあの世に送ってやる、って意味になりますよね。……ああ、冗談書いてる場合じゃない。
 
 

2006/9/11(月) 「結局、力業」

 
 文仁親王妃紀子殿下(っていうそうです)が、ついにお子様をお産みになられました(二重敬語です。分かってて使ってます。)
 
 女性天皇も、女系天皇も、皇室典範改正も、元皇族の皇籍復活も、ぜーんぶ吹き飛んじゃいましたね。結局、最後は力業でした。不惑を迎えた夫婦の一念発起によるものか、それ以外の何かによるものか、私ごときにはまったく分かりません。
 
 分かりませんよねー。
 
 とにかく、父系直系の生物学的嫡出子だけが天皇になれるというのはせいぜい3代程度で終わりそうだから、ひとまず遺伝上の父でたどれる男系だけは維持しよう、と。この辺りの方向性を法改正で成文化するかどうかが一年ほど前にはさかんに論議されていましたけれど、今回の「男子再生産」という事実によってかき消されちゃった。
 
 いや、ある意味でみなさんほっとしたんでしょうね。
 
 で、もって今日はその文仁親王妃紀子殿下の40回目の誕生日なのだとか。NHKのアナウンサーはしっかりと「ケーキを召し上がられた」と最大の敬意(? こらっ、二重敬語だぞ!)を込めたニュース読み。
 
 今年度中に女の子を産んで、この親王殿下と同じ学年で学習院に入学させる、って意気込んでいる人もいることでしょう。
 
 明日は名前が付くのだとか。いろんな古典を漁って縁起の良い漢字を探し出すのでしょうが、まあ「ナントカ仁」なのは確かです。となれば、可能性のあるのは、たとえばこんなの。
 

紀仁(のりひと)

 やや、安直か。だったら
 

典仁(のりひと)

 これも安直かなあ。
 

あきひと
たかひと
ともひと
なるひと
ふみひと
まさひと
よしひと

 最近の皇族男子のお名前をお挙げさせていただくとこうなります。「カ行」「サ行」「ラ行」からはじまるお名前がございませんですのね。ということで、「あ」から順番に「ナントカ仁」を書いてみます。アタリ、でるかなあ。(こんなことしてると、お不敬罪にお当たりになるのでしょうか?)
 

あ:「あやひと」くらいしか思いつかない。
い:たぶん、ない。
う:たぶん、ない。
え:「えみひと」(笑仁、たぶんないけど)
お:「おさひと(長仁)」  長男だし。
か:「かつひと(勝仁)」……皇族っぽくないか。

 ・・・ああ、疲れた。可能性があるのは「き」「こ」「さ」「た」「と」「な」「の」「は」「ふ」「ま」「も」「や」「ゆ」「よ」「り」
 
 賭けるとすれば「の」と「り」の複式です。さあ、結果はどうなるか。
 
 (追記) 負けました。「悠仁」で「ひさひと」とは。音を重視なさるとは、さすが現代の皇族ですね。 
 
 

2006/8/16(水) 「我々は埃では死なない」

 むかしむかし、あるところに、働きアリと怠けアリがいました。
 
 働きアリは、朝から晩まで外を出歩いて餌を集め、巣の掃除をせっせとこなしていました。外では遊んで暮らしているキリギリスが、働きアリの勤勉さを茶化していました。
 
 怠けアリは「外は暑い」とか、「外は寒い」とか、「今日は湿気が多い」とか言って餌集めにも出かけず、日がな一日寝ころんで過ごしていました。そのうえ、働きアリが一生懸命に仕事をしていても知らぬふりです。
 
 働きアリは、それが面白くありませんでした。
 
 「よぉ、怠けアリ君。今日ボクは餌を十回も運んだんだぜ」
 
 「へぇ」
 
 「よぉ、怠けアリ君。君が眠っているあいだに巣の掃除をしておいたよ」
 
 「へぇ、働きアリ君ってよくやるよなあ。まあ、ありがとよ」
 
 「……。ふーん、君が感謝の言葉を述べるとは珍しいね。」
 
 「君がいつも仕事をひけらかした嫌味を言うからさ。感謝の言葉がほしいんだろ? あらあら、これはこれは働きアリ大先生、いつもいつもお世話になっております。へーこらへーこら。お陰様で私のような社会的不適合アリも清潔な住まいで暮らすことができております。感謝の言葉もございません、って。」
 
 「それも結構嫌味だねぇ。」
 
 「いくら怠けアリのボクだって、たまには掃除くらいしているんだぜ。君みたいにいちいち大声で実績報告しないから君は知らないだろうけど」
 
 「だけど、それだって"たまに"だろ? バランスで言ったらボクの方が9割くらい仕事をしている。もしここが会社だったら、君はとっくにクビだよ」
 
 「ぼくはそういう社会的なのには向いていないんだ。」
 
 「だからといって、すこしは自発的に働こうって気にはならないの? ボクはそれを望んでいるんだけど。すこしは楽させてくれよ。」
 
 「そんなに言うなら、君だって仕事を怠ければいいじゃないか。我々は埃がたまったって死にはしないんだから」
 
 それまでの苦労をすべて帳消しにしてしまう発言に、働きアリ君はむっとしました。
 
 そして、二度と怠けアリのために働くことはするまいと決心したのです。
 
 我々は埃では死なない。
 
 それからというもの、働きアリは自分が食べる餌だけを拾ってきて、自分の身の回りの掃除だけをしました。
 
 そうそう、怠けアリはこうも言いました。「ぼくはずっと君に対して不満を持ってきた。その不満の百分の一も君には言っていない。それなのに君は嫌味を言うんだな」
 
 「あ、そうなんだ。怠け者のくせに君はボクの働きに不満を持っているんだね。でもそういうのって逆ギレっていうんだよ」
 
 ムッとした怠けアリはそのまま自分の部屋に引っ込んで、働きアリとは口もきこうともしませんでした。そして働きアリが仕事をしている昼間はゆっくり眠って、夜になるとコガネムシや蛾やゴキブリたちと遊び回っていました。
 
 冬がやってきました。夏のあいだ遊んで暮らしていたキリギリスは、とっくにアリの餌になっていました。
 
 コガネムシや蛾やゴキブリたちも姿を消しました。
 
 怠けアリはといえば「寒くてやってらんねーよ」とブツブツいいながら、働きアリが運んできた餌をつまんでいました。
 
 働きアリは、相変わらずせっせと掃除をしています。
 
 「ねえ、怠けアリ君。もうすこし整理整頓してくれないかなあ。君のところは掃除がしにくくてしょうがないよ」
 
 「いちいちうるさいなあ。だからいっただろ、働きアリ君。我々は埃では死なないんだよ。」
 
 こうしていつの間にか、働きアリは怠けアリに飼いならされてしまったのです。
 

下心(教訓) 
 この物語には、汚くても、散らかっていても、死なないで済む程度の居住空間があれば十分という開き直り哲学を見ることができます。あるいはこの物語を現代社会における清潔さへの執着に対する皮肉と見ることもできます。
 また社会は平等でもなく、社会的無能力を公言してはばからない自由さこそが勝ち組になる秘訣であるという、ある意味で格差社会の裏道を行く人生訓が得られます。「大事な仕事は忙しそうにしているヤツにやらせろ」という世間一般の常識にも通底するものがあります。
 みなさん、頑張るのは止めましょう。ボクはバカです、って大きな声で言っておいた方が絶対に得です。

 

2006/7/31(日) 「心の問題ですから」

 
 靖国神社を参拝するか否か。
 
 小泉首相の答えは「心の問題ですから」という、答えになっていない答えです。 小泉純一郎の発話の特徴って、各所で言われてますよね。たとえば
 
 「コイズミの発言は短くて完結。断定形で終わる。」
 
 っていうのがあります。「〜であろう」みたいなのが少ないし、主語と述語の距離が短いから、文章読解力のないひとでも理解可能です。
 それから、
 
 「小泉の発言には、えー、とか、あー、とか、つまりですねぇ、とかいった間投語がほとんどない。」
 
 っていうのもあります。「つまり、ぃー、あの、ぉー、ですから、ぁー」みたいなのが無い。
 
 ところが、「心の問題」発言はちょっと違う。なんでかっていうと、「心の問題ですから」の後に何にも続けていないのに、何を言おうとしているか分かっちゃうっていう、不思議な言葉。
 
 「人間だもの」っていわれても、「だから?」となるのが普通でしょ? でもコイズミが「心の問題だもの」っていえば、みんな、コイズミが何を言いたいのかはよく分かる。
 
 でもさあ。考えてみると、いくつかの二項対立が潜んでいるんですよ。
 
 「靖国に参拝するかどうかは心の問題ですから、政治の場に引きずり出さないでください」
 
 という心/政治、という二項対立。つまり、政治には心や心情は必要ないっていうこと。
 
 「心の問題ですから、頭の問題じゃないです」
 
 という心/頭、という二項対立。戦後補償だなんだって、頭でごちゃごちゃ考えるんじゃネエ! ってか?
 
 「心の問題ですから、個人的なことなんです。プライベートですから立ち入らないでください」
 
 っていう心=個人/社会、という二項対立。
 
 戦争は社会のことである。でも戦没者のことを思うのは心の問題だ。
 
 だったら、私人として参拝しろ、って誰もが思うでしょ。私も思います。
 
 昭和天皇がなぜ靖国を参拝しなくなったか、その謎を解くヒントになるとされるメモが先日公開されましたが、そこでもコイズミの「心の問題」はばっちり効き目を現しました。
 
 「心の問題ですから、昭和天皇の心に立ち入るつもりはありません」って論理。すごいよねえ、なんにでも使える。
 
 集金「NHKですが〜、受信料払ってください」
 増田「心の問題ですから……(払うつもりはない、個人の心情に立ち入るな)」
 
 警察「そこの暴走族! 暴走行為を止めなさい!」
 ゾッキー「心の問題ですから……(好きに走らせろ!)」 ←確かに心に問題あるな
 
 某「ゴミは分別してもらわないと困ります」
 飼い主「心の問題ですから……(面倒じゃんか)」 ←面倒って、確かに心の問題だ
 
 某女性「きゃー、触るの止めてください!」
 痴漢「心の問題ですから」 ←体の問題だろ、こら!
 
  今日になって、武部幹事長が「国民は安部氏を望んでる」とコメントしてます。うーん、これって自民党の総裁選だよな。国民の支持率がどうのこうのいう問題じゃないよな。だいたい現役の幹事長が次期総裁候補の誰かを公然と支持するって、ありか?
 
 あ、そうか。心の問題なんだ。
 
 
 

2006/7/18(火) 「明日あたり、か?」

 
 世界中で同時期に似たようなことが起きる。そういうコトってあります。
 
 たとえば航空機事故。どこかで墜落事故があると、数日以内に世界のどこかでやはり墜落事故が起きる。それも三つも四つも立て続けに墜落事故があったりする。最近も立て続けにありましたよね。
 
 地震。どこかで大地震や津波災害が起きると、わりとすぐに、遠く離れたところでも地震災害に見舞われたりします。
 
 パロマの瞬間湯沸かし器で一酸化炭素中毒。というニュースが流れて数日たちますが、今日は銀座の料理店で一酸化炭素中毒の事故がありました。
 
 一酸化炭素中毒を利用した自死の方法が、いわゆる「練炭自殺」です。しかし、このやり方って、そんなに歴史のある自殺方法じゃないと思います。一酸化炭素は木炭の不完全燃焼でも発生しますが、人類の歴史では木炭の利用は長い歴史がありますし、でも、これまた人類の歴史には、一酸化炭素を充満させられるほどの密閉空間は長いこと存在していなかったのですから。
 
 たとえばアルミサッシが登場する前の日本家屋は、隙間だらけのスカスカでした。私が逗子にいた時に住んでいた家は、それこど隙間だらけの吹きっさらしで、よほど目張りをしっかりやらないと一酸化炭素中毒では死ねない作りでしたし。
 
 たぶん「自殺の歴史」とか「自殺全書」といった書物をひもとけば分かることでしょうが、ガスを充満させて死ぬという手法は、頸動脈を切るとか高いところから飛び降りるといった方法とは質的に明らかに異なります。
 
 ……そうだ、一酸化炭素中毒の話を書きたかったんじゃなかった。
 
 北朝鮮のミサイルの一件以来、この「爆弾を積んだロケット」が気になって仕方ありません。爆発物を遠くに飛ばすという発想自体は相当古いようで、最初に使い出したのは13世紀の中国だそうです。
 
 ミサイルは技術のかたまり。「飛ばして爆発させるだけ」の筒っぽなのに、ハイテクの粋を集めてるから、やたらと金がかかります。そのくせ、使い捨てですもん。なんでこんな前時代的重厚長大兵器がいまに至るまで人気を集めているのか、私にはよく理解できないのです。
 
 これもシンクロニシティなのか、ここ数日はイスラエルと、レバノンにいるヒズボラの間でミサイルを飛ばしあってるようです。イスラエルがミサイルを撃ち込んだかと思えば、ヒズボラはイスラエル軍機に命中させる。使ったのはイラン製ミサイルだとか。そういえば、北朝鮮はソ連製のミサイルを手本にしてますね。冷戦の遺産はしっかり受け継がれているんですね。
 
 さて、明日あたりは、どこにミサイルが命中し、どこで飛行機が墜落し、どこでガス湯沸かし器が故障するんでしょう。
 
 

2006/7/5(水)「茶番こそが秘訣だ!」

 北朝鮮がミサイルを発射してみせた(ほんとに飛ぶんだ、すごいねえ)というニュースを、つい今しがた知りました。
 
テポドンとか、ノドンとか、私たちからすると怪獣か恐竜の名前に聞こえる小型ロケットを飛ばすってのは、やっぱり政治的な演出ですよね。「戦争は形を変えた政治である」というクラウゼヴィッツの言葉をもじって、「政治は形を変えた戦争だ」というようなことを、以前にどこかのTalkに書きましたけど、我ながら、なかなかの慧眼じゃないかと思ったりして。
 
 今晩のニュースを見ているだけで、すごいな、と思うことが沢山ありました。日本の政党党首が、あたかも一致団結したかのように「北朝鮮非難」を繰り出す風景。
 
 国際社会が論調をそろえて非難声明を出しているのも、なんだか大戦間のドイツのような扱いです。ってことは、メーターもそろそろ「政治」から「戦争」に振り切れるのか?
 
 北朝鮮、あるいはキム帝国を見ていると大変に勉強になります。私が学ぶのは、国内政治をほどほどに収めて、外交で上手く立ち回る秘訣、ですね。その秘訣とは、一に「一党独裁」、二に「恐怖政治」、そして(これはちょっとヘンかもしれないけれど)「茶番」です。
 
 この「茶番」こそが、キム帝国の特色です。そして、この世界でこれほど大まじめに茶番を演じられる国家はないのではないか、と私は考えます。平気でウソがつけて、情報隠しができて、そのうえ、それが人民に支持されているとアピールできる剛胆さ。
 
 この茶番国家、正式名称は「朝鮮民主主義人民共和国」でしたね。「民主主義」の「人民共和国」だってのも、茶番なんでしょうか? >親愛なる、キム・ジョンイル様(メール下さい♪)
 
 

2006/6/25(日)「そう、急かすなって」

 
 昨日大阪に行って、さっき戻ってきて。
 
 今年に入ってどれだけのフライトに乗ったのか、手帳をめくってみたら……今日のが、たぶん19番目です。長崎市内よりも、長崎空港&伊丹空港のほうが「馴染みの場所」になってきました。
 
 じつは長崎に来るまでは国内便というものにほとんど乗ったことがなかったのですね。それが、いまではもう当たり前の乗り物。みなさんよく、「マイルたまるでしょ」ってお聞きになりますが、そうでもないのだな、これが。長崎−羽田が609マイル、長崎−伊丹が332マイルだけど、私はほとんど「パックツアー」チケットを使うので、マイルはせいぜい半分です。
 
 ちなみに、JALとANAのどちらかといえば、私は(もうみなさんご存じのように)JAL派です。ANAがダメってワケじゃなくて、ただ、ANAの客室乗務員とは「呼吸が合わない」。(ついでに書けば、JALのサイトは構造が複雑で、ユーザーに対しては非常に不親切。目指すモノになかなか辿り着けないってのは、サービス業のウェブサイトとしては不合格。)
 
 さて、空港は好きな場所の一つですが、セキュリティ・チェックは相変わらず苦手です。
 
 とにかく、ピーって鳴るたんびに靴を脱がされるのが嫌ですよね。ですから、最近はポケットの小銭はもちろんカゴにあけ、アクセサリー類もすべてはずし、金属ボタンのシャツも脱ぎ、そして、ベルトもはずしてからくぐるようにしてます。
 
 こうすれば、だいたいOK。
 
 こないだ、こんなことがありました。金属探知器に引っかかり、ビルケンシュトックの靴を脱がされ、全身にハンディな探知機を当てられたら、原因はベルトのバックル、でした。そこでその女性職員が何をしたかというと、一言「ベルト回りを確認してよろしいですか」と言って、そのあたりをぐりぐり触りだしたのです。
 
 バックルまわりに他の金属がないか確かめていたようですが、彼女の親指がズボンのなかに差し込まれる形になりまして……いくら女の人だからって、ぜんぜんうれしくない(笑)
 
 と、まあ、セキュリティ・チェックはさまざまなドラマを生み出すわけですが (^_^;)、探知機に引っかかるたんびに腹を立てるのも嫌なので、上に書いたように万端の準備をしてから挑むようにしてます。そうそう、パソコンをカバンから取り出すという一手間もありますね。
 
 これだけ色々やるってのは、ある意味ではセキュリティさん(←この言い方が適切かどうかしらないけど)のためでもありますから、私はかなり協力的な客なんだと思ってます。なのに、さあ。
 
 いろいろ取りだそう、全部開示して進ぜよう、まずはチケットを見せて、それからだっていう「手一杯」のタイミングで、すかさず「チケットを拝見しまーす」ってのは、ないんじゃない? そう、急かすなっての。>長崎空港のセキュリティさんへ。
 
 ここでも「呼吸が合わない」。
 
 

2006/5/13(土)「本家も引っ越しました。」

 
 はい、本家サイトも引っ越しました。
 トップページはhttp://www.lalombe.com/です。
 
 

2006/4/12(水)「ごねればなんとかなる。」

 
 フランスのドビルパン首相が、行儀の悪い若者たちにたまりかねて、ついに新しい雇用法案を撤回したというニュース。
 
 どんなにへんちくりんな法律が審議されていても、「どうせ可決しちゃうんでしょ」とあきらめちゃう日本とは明らかに違うリアクションに、いまさらながら驚きました。
 
 日本だと、たとえば、かなり謎な法律「健康増進法」とか、喫煙者はもっと声を上げても良かったんじゃないかと思うのですが、結局のところ「喫煙は害悪」というPC(Political Correctness)の前に有無を言わされず、あっけなく可決してしまいました。
 
 郵政民営化も、消費税増税も、また然り。
 
 そのうち、憲法の改定も同じようになっちゃうんでしょ? 戦争放棄はどうせ無くなっちゃうんでしょ? ……って、みんな思っているんじゃありませんか?
 
 思えば、日本では安保闘争が敗北に終わったころ、フランスでは1968年の5月革命を成功させています。ゼネストと暴動のコンビネーションが威力を発揮するところとそうでないところには、いったいどんな違いがあるというのだ?
 
 このところ、世界中で、ひしひしと暴動、そして内戦のうねりが高まっているのが感じられます。イラクは結局のところ内戦状態にあります。ネパールは国王の直接統治に反対するストと暴動が渦巻いております。
 
 民衆による、ハード・レジスタンスは必要悪として認められるものなのか、それとも、「それでもやっぱり暴力はイカン」と正論をかますべきなのか。私にはさっぱり分かりません。
 
 ひとつだけ言えるのは、フランスは200年前に、国王夫妻を断頭台に送り込んだところだ、という歴史背景があるということだけです。「ごねればなんとかなる」。これだってひとつの歴史的教訓でしょ。
 
 学生たち、および、(不思議なことに)北アフリカ系移民たちによる「暴動」という選択は合理的であるか否か、という議論も、それはそれで意味あるものです。しかし、たとえば「なぜフランスではごねるのに、日本人はごねないのか」という問には、行動の合理性だけでは解決できない問題があるでしょう。
 
 

2006/3/21(火)「簡単に感動してたまるか!」

 
 World Baseball Classicの決勝戦。このシリーズの試合をはじめてテレビ観戦しました。
 
 なにせ、始まってからもまったく関心がわかなかったし(オールスター戦くらいの気楽なものだと思っていた)、本戦が始まってからはずっと東京近辺で遊ぶのに忙しかったので、展開をまったくフォローしていなかったのでした。
 
 千葉のJR線内で、高校生たちの立ち話から「メキシコがアメリカに勝ったらしい」という速報は耳にしていましたが。
 
 今日は決勝戦だということも、日本が決勝に進出したということも、相手がキューバだということも、昨晩の帰りのタクシーの中で知ったのでした。
 
 元野球少年ともあろうものが。と、お思いでしょうが、クロマティ(だったっけ?)も言ったように「野球」と「ベースボール」は別物ですから、そんなのを一緒に戦わせて何になるのだ、という気持ちがあったのでしょう。
 
 実際、アメリカンルールで、メジャーリーグの宣伝に使われているような世界大会をやることには、相当な問題があると言わざるを得ません。
 
 とはいえ、強豪とされる国々のトーナメントでトップに立ったのですから、やはり日本のプロ野球選手たちはすごいのだとは言えます。一回表に、イチロー、松中、多村あたりが満塁でベースに立っているってのは、こりゃあもう壮観でした。
 
 WBCが始まった当初、日本での知名度は低いものでした。記者会見でイチローが、珍しく放言を繰り返したことで、だいぶ注意をひくようになったものの、現代の日本では野球の人気低下は顕著。それが韓国戦で視聴率5割越え(打率だったらすごいぜ)っていうのは、やはり日本人のプチ・ナショナリズムを刺激したんでしょうね。
 
 にっぽん・ちゃちゃちゃ、みたいなのやってたの見たぞ見たぞ!
 
 優勝決定後の街角インタビューがおかしかったのも発見。日本の一般人は「ほんとにぃ、感動しましたぁ!」とか、「感動をありがとう!」なんてのばっかりでしたが、キューバ人は「キューバは日本に負けないような技術を身につけなければならない」などという真面目なもの。
 
 日本の人々は、あたりまえに感動好きなんですね。よほど日常に退屈していると見えます。
 
 

2006/3/4(土)「泣き言お断り」

 
 某先生が、こんなことを言っていました。
 
 「私はほとんどの授業を前期にやるようにしている。後期にやると、成績を出す段になって、やれ卒業がかかっているの、進級がかかっているのとうるさい学生がでてくるから」
 
 その気持ち、とてもよく分かります。
 
 かつて一般教養の文化人類学を教えていた時にも、後期の期末試験になるとかならず、答案用紙の隅に「卒業がかかっています。もし点数が低いようでしたら、課題でも何でも対応しますので、下記までご連絡ください」とか書いてあって、その下にはメールアドレスとか、ケータイの番号とかが書かれているものがありました。
 
 ほかには、前期の答案で「就職活動でほとんど出席できず申し訳ありません。後期頑張りますから合格にして頂けないでしょうか」というのもあったように覚えています。
 
 先日も、とある大学のとある授業で、受講生の中から一人だけ不合格にしました。その学生が何年生であるかなんて、いちいち確認しません。そしたら「成績評価に対する申し立て」が出されたのです。
 
 この「申し立て」についてはこれまでも、このサイト上でなんども取り上げてきましたが、いろんな意味で味わい深いものです。
 
 まず、申し立てをする側は、自分が不合格であったり低い評価であったことに腹を立てているか、そうでなければ当惑しているはずです。ですが、それを前面に出すのは不利なので、できるだけ低姿勢で申し立てしようとします。そうなると、その微妙なバランスを維持せねばならず、どうしてもほころびが出ます。
 
 その「ほころび」は、端的にいって文章力によるものなのですが、まあ、点数が低かったということは文章力も劣っている可能性が高いですから、怒りと低姿勢の微妙な隙間を縫うような文章は書けないんでしょう。
 
 大人だって、このバランスを維持しつつ文章を書くのは難しいと思われます。
 
 「私の答案のどこがいけなかったのでしょうか?」と半べそを書いたような申し立てには、「如何にあなたの答案がダメであるか」をこんこんと書いて回答とします。(一通書くのに通常2時間)
 
 「一所懸命勉強したのになぜ不合格なのでしょう」という言いがかり系には、「私は努力の量をはかっているのではなく、点数をはかっているのです」としか答えられません。
 
 「卒業がかかっているのです。憧れていた××社に就職が決まっているのです。だから、絶対落としてはならないと、緊張感を持って授業を受けていたました。なんとかならないでしょうか。」という泣き言にはこう答えます。
 
 「私が請け負っている仕事は、授業をやって成績を出すことです。卒業できるかどうかなんて、知ったことではありません」 
 
 そして、こうも付け加えます。
 
 「あなたに与えられているのは、成績に対して申し立てをする権利です。就職先が決まっていることをタテにして、単位をもぎ取ろうとするのは止めてください」 
 
 ちなみに、「緊張感を持って授業を受けていた」というその学生の出席率は33%でした。そのうえ、提出されたレポートは9割がネットからのコピペ(これは完全にネタのURLまで突き止めました)。これを緊張感というのか?
 
 自分自身がしょっちゅう泣き言を言っているのを棚に上げて書きます。すくなくとも成績評価に関しては、泣き言は断り申し上げます。
 
 

2006/2/7(火)「邪推しません」

 
 秋篠宮紀子に妊娠の兆候がある、というニュースが出てきましたね。どういうわけか、宮内庁の発表よりも、マスコミ流出が先行しました。これが何を意味するか……
 
 この知らせを聞いて誰もが思い浮かべるのが、皇位継承順位。妊娠6週間の時点で皇位継承が取りざたされちゃうなんて……。
 
 この「お子様」はすでにメディアの関心を集めちゃってるわけですね。名前がないから、ネット検索されようがないけれど、でも「紀子様懐妊」なんてキーワードですでに関心を集めているわけで。
 
 それにしても、皇室典範の変更が話題になっているタイミングで、このニュース。これが何を意味するか……。
 
 ついでにいえば、秋篠宮は新年の歌会始でコウノトリの歌を読んだそうです。これが何を意味するか……。
 
 できすぎてる。うん、できすぎてる。
 
 知りたがりのマスコミは、すでに「いつになったら性別が分かるか」を話題にしてます。性別は受精の瞬間に決定されますから、すでに「男」か「女」か、あるいは……(不謹慎かもしれないので口をつぐむ)、すでに決まってるのです。
なんか、この妊娠、とある脈絡に放り込んでみると、不思議なつながりが見えそうですね。邪推、邪推。
 
 

2006/1/27(金)「もう二度と授業をすっぽかしません m(_ _)m」

 
 この黒板だけで、もはや説明は不要かと思いますが……やってしまいました! 授業すっぽかし。
 
 ほんとに「すっぽかし」なのです。ドタキャンですらなく、すっぽかし。休講ですらなく、欠講。ああ情けない・・・。100人近い学生に教室で待ちぼうけを食わせるなんて。
 
 ひとまずとりまとめ役の先生と、全学教育の担当者にお詫びをしましたが、肝心の学生諸君にお詫びを言っていない。ああ、心より陳謝致します。
 
 なんとなく嫌な予感はあったのです。まず、この授業がオムニバスの1コマ担当という、イレギュラーな授業であったということ。そして、自分が担当すべき「日にち」が、スケジュール帳のうえで再三移動したこと。
 
 言い訳です。
 
 このスケジュールの移動は、完全に私のせいです。授業の日程ははじめから決まっていました。ところが私は、まずこの日程を手帳に書き写す時にミスをしました。2月27日に書くべきところを、20日(金)に書き込んでいたのです。実際、2週間くらい前の「まとめ書き業務日誌」を読むと、20日に授業をやるつもりだったのが分かります。
 
 この勘違いに気付いてから、つぎに私は、あろうことか2月3日の金曜日に授業を書き込んでいました。これもずれてる。そして、いま手帳を開いてみると、どの時点で書いたかは分かりませんが、ちゃんと今日のところに「環境と文化」という授業名が書いてあるじゃありませんか。
 
 これじゃ何のためのスケジュール帳か分かりません。そして私はなんとマヌケで無責任なのだろうと、今日は午後からずっと落ち込んでいます。
 
 私の仕事は研究と教育ですし、大学で予定どおり授業をすることが最低限の義務だというのは当然のこと。なのに、なのに……。
 
 授業日程を忘れたり勘違いしたりしてすっぽかす人がいる、というのは以前から聞いていました。じっさい、「授業を忘れていて呼び出し電話を受けた」という先生が、慌てて教室に向かうのに出くわしたこともあります。その時には「まさか」と思ったものですが。違う意味で「まさか」です。「まさか自分がやるなんて」。
 
 いわゆる「再発防止策」をちゃんと考えないと、いけませんね。もう二度とすっぽかしません。本日はご迷惑をおかけしました。
 

2006/1/26(木)「ごはんをいただきながら、ケータイいじりません」

 
 私はテレビを見ながらご飯を食べることが多いのですが、皆さんはどうでしょうか? まあそれは、一人で食べることがほとんどだからなのですが。
 
 新聞や本を読みながら食べるのが好きという人もいるでしょう。あるいは食べるときはそれに集中する、という人もいるでしょう。
 
 私の場合は、同時にいくつかのことを並行してやるタチなのですけれど、たとえばラーメン屋みたいに、作った人が目の前にいる場合は「ながら食事」はできませんね。
 
 さて、ご飯を作った本人を目の前にして、ケータイをいじくり回す人って、どうなんでしょう。箸をつけてはメールを打つ。もたもたと食べ、そうするうちにまたメールが来るから、そのチェックに忙しい。
 
 もう飯は作ってやらねえ! おまえに食わせる飯はないっ! って。 頑固親父のいる店って、だからちょっと気持ち分かります。
 
 

2006/1/16(月)「真冬に日焼けしません」

 
 新年の挨拶もすっぽかして、エチオピアから帰ってきてみれば、日本はまだ冬。たった3週間の不在では、季節が大きく変わるなんてわけないのですが(それどころか、雪はハンパなく降り積もったそうで。これは海外でも盛んに報じられていました。)
 
 それに対してエチオピアはからっからの乾季。ホコリはもうもう、空はピーカン。
滞在中、雨は一滴も降らず、湿度は10%を切っていたのではないかと。なにせ、夜に洗濯した衣類を部屋に掛けておくだけで、朝には乾いてますから。ジーンズですら・・・。
 
 おかげで、いまにいたるまで喉がやられっぱなし。そして……日焼け。
 
 焼けの激しいのは、やはり両腕でしょう。ついで(自分じゃよく見えませんが)首のまわり。要するに土方焼けというやつ。顔も焼けたみたいで、新陳代謝が鈍ってきた年頃のボクとしては、シミにならないか不安でしょうがありません。
 
 教室に入った瞬間に、「お、マスケン、日に焼けたな」って思ったそうです。学生たち。
 
 でもそれよりももっと心配なのが、この真冬の時期に、あたかも太平洋で遊んできたかのごとく見られてしまうこと。先週の授業をすべて休講にし、打ち合わせもすっぽかした身としては、この日焼けのいいわけをいちいちしなければならない強迫観念に駆られるわけです。「遊んでたんじゃありませんよ〜、エチオピアで仕事してたんですよ〜」。
 
 

2005年12月1日(木)「専業主婦、復権なるか」

 
 いささか旧聞に属する話題ですが、紀宮清子(のりのみや・さやこ)の結婚について。
 
 いま「のりのみやさやこ」とキータイプして、初めて「さやこ」では「清子」と変換されないことを発見しました(Mac版Atok17)。ちなみに「ひろのみやなるひと→浩宮徳仁」の変換はばっちりです。この差はなんだ??
 
 結婚することで生まれて初めて「姓」を持つ、という人も、すくなくともこの国では珍しいでしょう。いや、実に久しぶりのことだそうです。逆に、結婚することで姓を失う女性の例は、私たちは前世紀末に2回直面しています。(「あの方」と「あの方」ですよ。この手の質問を授業中にぶつけても、たいていの学生は答えられない……)
 
 ということで、今回、正しい日本人の家族を演じることを宿命づけられた一家の娘さんが、同じように由緒正しい一家に嫁入りされました。テレビでは新郎は「○○さん」で、新婦の方が「○○様」と呼び分けられていたのが、とーっても印象的でしたね。
 
 でももっと印象に残ったのは、今回の報道の論調が示し合わせたようにあの人の「専業主婦への転身」を主題に据えていることでした。引っ越し前に掃除をしたとか、自分で作った弁当をもって「職場」に出かけたとか、そういうこと。
 
 「専業主婦」って言葉が、これほど温かみを持って語られたことも、そうは無いように思います。「 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(憲法第1条)だそうですし、「天皇家は国民の家族の理念」(出典不明、適当に作った)ですから、お嫁さんとして「男子直系家族」から出て行って、家事に専念するというのは、シナリオとしては願ったりかなったりなのでしょう。
 
 ともあれ、都庁職員の給与によって家計をやりくりし、同時に「元皇族として恥ずかしくない生活を送るため」名目の1億5千万円も仕切るという、妙な専業主婦が誕生したものです。
そういえば、男子直系を強く支持する皇族内部(および元皇族)からのリアクションも激しくなってきましたね。面白くなってきたぞ。。。
 
 

2005年11月7日(月)右から回り込んで左折しません」

 
 長崎に来てから、生活の何が変わったといって、電車に乗らなくなったのが最大の変化でしょう。だから帰宅途上に夕刊を買って、電車の到着を待ちながら新聞を読むなんてこともありません。
 
 そのかわり、私の人生においてこれまでなかったほど自家用車とバスとタクシーに依存する生活になってしまいました。これは「生活」というもののあり方を根本から組み立て直さなければならないほどの変化であります。
 
 さて、長崎で運転することの難しさについては、これまでも何度か「まとめ書き業務日誌」などで愚痴垂れてきました。道が狭いとかそういうことじゃなくて(道が狭いのは逗子〜鎌倉エリアも同じでしたから)、他の車の「出方」。呼吸が合わない、というのがこの感じを表しているでしょうか。
 
 とくに最近になって困っているのが、スクーター(この際だから原チャリと呼んでやろう)のマナーの悪さです。坂の多い町で、道が狭く、自転車はいやだし、車よりは小回りがきくということなんでしょうね、長崎は原チャリの多い町です。その証拠に自転車屋はなくても、バイク屋はそこらじゅうにあります。
 
 その原チャリ。普通自動車の左側にスペースがあったら追い越す、というのは、まあ良いとしましょう。でも、ね。いくつか列挙してみましょうか。
 

・3車線の国道で、二段階右折の表示があってもこれを守る原チャリがいない。だから、交差点が近づくと、左車線から中央車線、そして右車線へとゆらゆらレーンを変えていく原チャリがいる。これって、車を運転してると怖いですよ。

・長崎全般にいえることですが、対向車がけっこう近づいてきても、どんどん道に入り込んでくる。原チャリもおなじ感覚でつっこんでくるから、ドライバーは「右折原チャリ」の動きにつねに注意を払ってあげなきゃいけない。

・朝なんかは歩道を走って渋滞をよける原チャリがいる。「歩道を走る原チャリ」って、私は新聞配達だけだと思ってました。

 

・究極。信号が青に変わり、私は車をスタートさせました。私の左側には、信号待ちのあいだに私を追い越した原チャリがいて、これは私よりも先に出発し、直進していきました。……と。私が交差点にかかると、私の後ろから右側を追い越してゆく原チャリが! しかもこいつは、すでに走り出している私の前を横切って左折してゆきました。

 原チャリの法定最高速度は30キロです。実際には60キロくらいだして走っているのがたくさんいます。でも、そんなのはいいです。私の見るところ、原チャリの唯一の利点は「スタートダッシュがいい」という点ですから、とっとと発車して、とっとと去っていってくれればいいのです。
 
 でも、いくらダッシュがいいからといって、右から追い越して左折するってのはないでしょう。いままで私は原チャリの背中に「ほらほら、どけよ! オレ様が通るんだ。」とか、「ちぇ! キープレフトなんかすんじゃねぇよ。アタシが追い越せないじゃナイ」なんていうメッセージを読み取っていたんですが、どうもそれだけじゃないようです。いまの私は、その同じ背中に「私をひいて! 私を殺して!」というメッセージも読み取ってます。
 
 原チャリ・ライダーは何を考えながら乗ってるんですか?
 
 

2005年10月13日(木)「結局は「やった者勝ち」ですか?」

 
 連立与党が憲法の変更に向けて動き出しました。そのための国民投票の法律を作るとかなんとか言いだしていますが、これはフェアじゃないでしょう。憲法改正の発議等々は現行法の枠内でやるべきです。
 
 ニュースによればすでに、国民の権利として新しいものが五つ用意されているようです。個人情報の保護とか、そういうのです。素人ながらに考えてみました。
 
・個人情報の保護
 現行法がどうなっているのか知りませんが、これは現憲法の枠内で保証されているのではありませんか? だから個人情報保護法というのができたのでしょう? 新しい憲法の目玉にはなりません。
 
・国民の知る権利
 これもいまさら新しく明文化される必要を感じません。いまだって現行法で徐々にこの権利の拡大を広げているところでしょう。
 
・環境権
 いまいる学部が環境科学部なだけに気になりますが、でもこれで、たとえばこれからの開発を規制するような直球の効果にむすびつくかどうか分かりませんよ。すくなくともこれに基づいた法律があらたに制定されることは期待できますが、私からすればこれは一国の憲法として処理する問題というよりは、全世界的なコンセンサス作りの問題だという気がします。
 
・障害者と犯罪被害者の権利
 おそらく障がい者にもひとしく生存権を認める、とか、犯罪被害者をきちんと処遇すべし、とかいった内容になるのでしょうが、これはむしろ、現行憲法の基本的人権の尊重のなかで処理するべき各論だと思います。いまの憲法の枠組みの中でちゃんと立法されていないことのほうが問題です。
 
・知的財産権
 憲法で保証する理由が分からないうえに、内容についてもまったく想像が付きません。いまでは大学でも「カネになる知財」は重要なことらしいのですが、憲法にもりこむにはテクニカルすぎる気がします。
 
 じつはこんな各論めいたことばかりが、昨日(10/12)のニュースで流れたことに危惧を覚えます。これらは一見して、どれもが「うーん、そうだそうだ、保証すべきだ」と大衆を簡単に頷かせてしまう内容です。それなりに具体的だからなおさら。でも9条の件は先送り。そのままにする、とも言わず、変える、とも言わず。
 
 「数が多いものが勝利する」=「民主主義」というふうにすっかり誤解されている現在の日本では、あの野田聖子すらも郵政法案に賛成票を投じていまいました。となれば、自民党の新憲法起草委員会が決めたことが、そのまま通ってしまうのでしょう。もはや複数政党制は不要だといわんばかりに。
 
 現時点では、自民党案もそれなりに野党に配慮したもののようですが、それは(報道によれば)、義務や責務といった言葉が多いと野党が難色を示す、といった低い次元の話です。憲法は国会議員が全員一致するまで議論しなければ、国民投票にかけてはいけません。
 
 ちなみに、自民党の新憲法委員会の委員長は、あの「日本、神の国」とのたまった森です。今回の選挙で自民党に票を投じた人たちは、数年以内に後悔するかもしれませんね。3年後には憲法が入れ替わって、5年後には本格的な戦争に突入しているかもしれないのですからね。知りませんぜ。
 
 

2005年9月20日(火)「選挙が終わってから党首交代しません」

 
 政党政治ってのはこういうもんじゃないでしょ? と、いつも思っていたことが、また繰り返されています。
 
 エチオピアに行っている間に、日本のセプテンバーイレブンスはちゃんと行われ、自民党がばっちり勝利したそうですね。私の場合は、自民党の勝利を知る前に、バンコクからアクセスしたネット上のニュースで、民主党の党首交代を知りました。そこから「ああ民主党は負けたんだ。岡田は引責辞任か」と推測したわけです。
 
 でも、選挙での「勝利」と「敗北」は意味合いがちょっとちがうと思います。話をややこしくしないために、自民党と民主党だけに話を絞ります。
 
 まず自民党の勝利。実際の選挙には「しがらみ」とか「イメージ」とか、いろいろな要素が絡み合っているとはいえ、ひとまず自民党の「勝利」は、小泉純一郎率いる政党の政策が、多数の支持を得たということになります。有権者それぞれが票を投じたのが、選挙区での立候補者という個人であったり、あるいは比例区での政党であったりとさまざまなのは事実ですが、現在の選挙システムではわれわれ有権者は「票田」に生える一本の稲にすぎませんから、まあ「多数=勝利」でいいと思います。
 
 他方で、民主党の敗北。これは結果的に衆議院内での獲得議席数が「相対的に少ない」ということにすぎません。すくなくとも、民主党(およびその推薦を受けた立候補者)に対して票を投じた有権者はたくさんいたわけですから、民主党はそうした有権者たちに対して、選挙前に訴えていたポリシーを、選挙前と同じ体制で突き進めるべきです。
 
 同じ引責辞任でも、「今シーズン最下位だったので監督を辞任する」というのとはぜんぜん違いますよ。そのことを分かっているのでしょうか。
 
 リクルート事件以降、日本では政党の離合集散が激しくて、もはや誰がどこの政党に属していたかなんて歴史を即座に復唱できる人は、一般人にはまったくいないと思います。でもこの変動の激しさは間違っていると私は思うのです。
 
 政党政治をするというのが日本の政治システムの根幹にありますから、有権者の投じた票は直接間接に政党に対して投じられたものです。民主党は、議席を減らしたとはいえ(マスメディアでは惨敗=惨めな敗北などという言葉が踊ってますね)、相変わらず野党第一党ですから、有力な自民党へのアンチテーゼとしての役割を担う義務があります。
 
 その政党が、選挙が終わってから党首を取り替え、執行部を取り替えるというのはとんでもない話です。しかも今回の新党首、改憲論者だっていうじゃないの。民主党に投票した有権者をバカにした話じゃありませんか?
 
 選挙前にマニフェストを発表するというのは、いまの民主党がはじめたことでした。それは、選挙が終わったらこういう政策を進めますという公約集だったはずです。それはどうやら私の誤解だったようで、民主党にとっては「選挙に勝ったらこうやります」ということだったらしいです。裏返していえば、「負けたら、この通りにやるとは限りませんよ。数の上で少なかったら我々は無力ですから」ということになります。
 
 議員には、選挙後すくなくとも1年間は自主的な離党や移籍を禁止し、政党には選挙後の体制の変更や離合集散を禁止すべきです。そうじゃなきゃ、政党政治に「投票」という形で参加する意味ないじゃないの。ちがいますか?