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Talk178:食えないよりも、食える方がいいに決まってる。

(Sep.12/2009)


 5ヶ月ぶりのエチオピアは雨季の最中だった。海抜2500を超える首都アディスアベバの雨季はどんよりと冷たく、たちまち体調を崩した。ホテルの毛布だけではお腹が冷えるうえ、エチオピア料理のトウガラシがテキメンに効いて、即座に腹をこわした。しかたなくシュラフで全身をくるみ、その上から毛布を掛けて眠った。

 その前の週まで、ケニア北東部の、ソマリア国境地帯で海抜130メートルのサバンナを満喫していたのだから、なおさらアディスアベバは寒かった。

 それに引き換え、南部はかつてないほどの雨不足で不作に陥っている。日射しもきつく、雨季の終わりのはずなのに、まるで乾季真っ最中だ。

 前回の訪問(昨年末から今年の1月)も、その前(2007年2月〜3月)も、バンナにやってきたのは乾季の最中だった。2005年には雨季に滞在して、人々の水資源の利用を調べていた。たっぷりと水を含んだ川底の砂は、まるで波打ち際の砂浜みたいで、実際川底の砂に吸い込まれそうになったのだった。

 今回は、そういう雨季の水資源利用を再確認するのが目的の一つだったのだが、やってきてみれば8か月前の乾季が相変わらず続いていた。

 バンナの人々に聞いてみると、雨季はそれなりに始まったらしい。だが、種をまいてそこそこ茎が伸びたところで雨が止まり、枯れてしまったという。その後、また雨が降ったタイミングで種を蒔いたがそれも成長が止まり乾いて枯れてしまった。

 バンナではだいたい4月ごろに種をまき、5月から6月のまとまった雨によって穀物が実る(私が集めたデータでも、6月の雨量が落ち込むと不作になることが明らかになっている)。収穫のピークは8月だ。本来なら食べ物があふれているはずのこの時期に、彼らは家畜を売って得た金で穀物を買っていた。家畜を売って現金を手に入れ、それを使って穀物を買うのは、乾季の生活パターンである。

 しかも、長引く水不足と牧草不足で、バンナで見かけたウシはみな肋骨がはっきり見えるほどやせこけている。そのうえ、炭疽が蔓延しつつあり、牛肉と羊肉を食しないよう政府が通達を出していた。つまり、バンナが生活をかけて売りに出したウシには買い手が付かない。

 与えられた「環境」(せまい意味での)に徹底して依存し、プラスティック系ゴミなどついぞ見ない彼らの生活は、その意味では環境負荷が著しく低い。その代わり環境改変の度合いが低いので、たとえば雨不足などの状況に左右されやすい。

 こういう状況をサステイナブルというのだろうか? たしかに資源を食い散らかす生活様式ではないし、地球温暖化にもほとんど貢献していない。そういう意味では持続可能だといってもよい。だが……地球温暖化や未来環境といったメタメタレベルの話でくくる以前に、ここでは生存がかかった状況が進行している。

 バンナだけではない。今回、エチオピアのどこで誰に会っても、生活苦の話を聞かされた。ある者は水不足による生活の負担増を嘆き、あるものは経済の低迷で仕事がないことを訴える。

 いつものことだが、今回も何度か病人を運んだ。そのうちの一人はボリ村の弟であるブスコの奥さんで、妊娠中だが出血が止まらないという。それを、今はアルドゥバのクリニックで看護師をしているアンドアレム(こいつはカイ・アファールの弟分)に相談し、移動手段を提供したのだ。

 病人運びなんて、一人ひとり対処していたらキリがないよな、といつも思う。

 道路がきちんと整備されて、公共交通機関が頻繁に行き交うようにさえなればかなり状況は良くなるはずだし、僻地のヘルスポストだってもっと有効に活用できるはずだ。ただエチオピアのような低開発国では、周辺部までそうしたインフラを整えるゆとりがない。

 誰に聞いても同じことを言いう。「草はない、実りはない、水はない」と。

 牛の群れに水を飲ませる作業にも炎天下同行したが、彼らが道々話しているのはいつも「どこどこの水は枯れた、どこそこの貯水池にはすこしだけある。そこが枯れたらあっちへいくしかない。」みたいな情報交換だった。

 彼らはいま、生きるために必要なことしか話さない。誰それが覚せい剤で逮捕されたとか、お笑い芸人の誰それが誰それと付き合ってるとか、そういうことを話しながら「環境問題」を考えてる「なんちゃって」な我々とは次元がちがうのだ。

 アフリカの人々の映像を授業で見せると、「日本に生まれてよかったと思います」みたいなことを書いてくる学生がいる。そういう学生に対して、かつての私はかなりの反感を抱いたものだが、いまはすこし違う。そう、タップをひねればお湯が出て、お腹がすいたらコンビニでおにぎりを買えちゃう国に生まれたことは、すくなくとも生存苦からすこしだけ解放されているという点で「日本に生まれてよかったと思います」と口にしてしまっても仕方がないことだと思えるようになった。すこしだけだけど。

 文化相対主義に立脚する人類学者は普遍的価値観を嫌う、と思われているかもしれない。だが、水や食べ物はないよりもあったほうがいいし、病気にはかからないほうがいいに決まっている。そんな当たり前の普遍的感覚を身にしみて感じて、アディスアベバに帰ってきた。