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Talk179:プライスレス

(Sep.13/2009)


 長崎大学に着任してから、この9月末でまる5年を迎える。昨今流行の任期制雇用であったなら、再任されるかどうかの瀬戸際だったはずだ。

 長崎大学の多くの部局が、すでに任期制雇用を導入している。3年とか5年ごとに業績が評価されて、仕事を続けられるかどうかが審査される制度のことである。私が所属している環境科学部にはいまのところ(そう、いまのところ、だ)そういう制度が取り入れられていないので、まる5年たってしまった私が、ここで仕事を続けられるかどうかを問われることはない。

 だが心の片隅には、この際だから仕事を続けられるかどうかは別として、オレがやっていることをちゃんと見て欲しいという気分がある。

 任期制だったら、私は仕事を続けられただろうか? 自分の中の答えは「ノー」である。それは論文数を見てみれば一目瞭然だ。

 単著の査読論文、3編(日本語2、英語1)

 これが私の業績評価の対象となる論文の全てだ。いくらなんでも、これはひどい。これでは「君はもう要らないからね、バイバイ」と言われても仕方がない。

 他の業績も見てみるが、芳しくないのだ。

 共著の書籍、3冊。
 査読なしのプロシーディング論文(共著、英語で15ページ)が1本。
 書評、3本。
 エッセイ11本。
 口頭発表、5会(日本語4、英語1)

 ページ数に換算すれば、理系のそれの数倍にはなるだろうが、「本数」で数えればお粗末きわまりない。これはもう、クビにされても仕方ない。

 いやまて、学内の業務だっていろいろやっているだろう。それを数えなきゃ。と思い直して、数えてみる。うる覚えのものも多いので、思い出せる限り思い出してみると。

 学部の常設委員会:総務委員2年、教務委員2年半(←ふつうは2年で終わるはずの仕事)
 ワーキング・グループ、3つ(だったかな? うち2つは座長)
 引き受けた学生の数、学部で26人(一学年当たり6.5人)、大学院の主指導が4人、副指導が3人、研究生が1人。
 こなした授業の数、一学期平均5コマ(年平均10コマ)
 FDの講師担当、7回(?)

 うーむ、一学期平均5コマしかやっていないとは。委員会業務だってもっと忙しい方々はたくさんいらっしゃるわけだから、「増田はヒマこいてる」と思われても仕方ないな。

 じゃあ、学外での仕事(=社会貢献)はどうかというと。

 非常勤講師としての担当コマ数、5年間で総計27コマ、年平均5コマ。

 おおおっ! 長崎大学での授業料と張り合ってる! 他大学での授業数が、長崎大でのそれの50%にもなっているじゃないか。

 これでは「増田は外でバイトばっかりしている」と思われても仕方ないな。ちなみに、平均のコマ数が張り合っていると言っても、非常勤講師としての収入は、長崎大でのそれのおよそ15パーセントだ。大学非常勤講師という仕事が、いかに割に合わないかはこれで分かる。(その「割に合わない」仕事を、私は何年もやって来たのだ。東京で)。

 昨今の大学では「外部資金」を取ることが至上命題になっているが、この点(つまり、余所からどれだけの金を稼いできたのか)は、これまではあまり評価の対象となってこなかった。私のような貧乏研究者には有難いことに。

 で、増田がどれくらいの研究費を自力で加勢できたかというと……計算が難しい。去年からの私は、潤沢な研究費に恵まれているが、それ以前は、出す申請、出す申請、ことごとくハズレばかりだった。それでも共同研究の科研は通っていたから、エチオピアに行くことはできた。諸々を大まかに合計すると、たぶん

 年、100万円。

 といったところだろうか。

 高額な実験機材を必要としない文系研究者であれば、まあこのくらいが妥当な数字だろう。ただし、極端に予算がない年と、極端に予算がある年があって、そのアンバランスが私を惑わせるのはたしかだが。

 さて。これだけ列挙したところで、任期制だったとすると私は再任されただろうか。

 先ほども書いたように、答えは「ノー」である。論文数(それも査読付の)が少ないからだ。

 だが、いまの私にはこれ以上の研究実績を上げる余裕がない。つまり、いまのような仕事のやり方を続けていたら、来るべき任期制導入の暁には私は数年以内にクビだ。論文も書かず、学内の仕事もしない人間は、いるだけで害だからである。こういう人間が大学にいることそのものが迷惑でしかない。

 もちろん、文系と理系の研究業績(と社会貢献)を同じ基準で評価していいのかという議論は昔からある。理系研究者が「論文」として公刊する実験レポートは数ページにしかすぎないが、私が日本語・英語で書いてきた論文は10ページを超えるものばかりだ。海外調査がメインなので論文一本当たりの経費単価は高いが、かといって理系の論文のように「論文一本当たり2000万円かかった」ということもない。そういう意味ではコストは低く抑えられている。

 そもそも、研究者を評価するのに、お金を持ち出すのがおかしい。だが、理系的基準が幅をきかせる今日の日本の大学では、これは抗えにくい力として作用しているのも事実だ。ちなみに長崎大学は基本的に理系学問が中心の大学である。

 そういえば、給料のことを書いてなかったな。

 長崎大学に来た当初の基本給と、今の基本給を比べるとその差は1万3000円ほどである。もちろん上がっているのだが、実は一度大幅に引き上げられて、その低下したという経緯がある。これは国立大学の予算削減によるものらしい。

 上に書いてあるような地味な業績ではしょうがないのだが、私より前からいる同僚がすくなくとも一度は受けている「特別昇給」なるものを、私はもらったことがない。ついでにいえば5年に一度実施されるという大規模な個人評価も受けたことがない。これはひとえに就職のタイミングの悪さと、仕事のやらなさによる。

 そう、私の給料が上がることはそうそう見込めないのだ。その給料から、奨学金数百万円の返済をし、パラサイト×2を養い、破壊されてもはや回復不能なボルボのローンを支払い続けるのが、これからの人生だ。

 まあ、こんなことは金と数字の問題に過ぎない。世間には金と数字を基準に、人民をどのように仕向けるのかという学問が存在するらしいのだが、残念なことに私はそういう操作にはあまり興味がない。大学教員を評価するにあたってはもちろん、どれだけの数の学生をしたかという量的な部分に大いなる興味を持つが(それが学生による教員評価にほかならないからだ)、どれほどのレベルの論文を書かせたかという質的な部分にこそ大きく興味をそそられる。

 私にとっては、自分が育てた学生の卒論のほうが、よほど心に染みる。これまでに3学年の卒論、総計15本を指導してきたけれど、そのうち4 本が文化環境研究会の優秀卒論に選ばれている。私の修士論文よりもはるかに長い卒論を書いてくる学生たちもすごいが、それが学生による自己評価でも、指導する私自身の評価でもなく、外部の目によって「優秀」と評価されたことのほうがよほど名誉だ。

 学生に書かせた論文の質なんて、大学にとっては評価の対象でもなんでないんだけどね。