Talk181:バングラデシュで、サザンを歌う
(Oct.13/2009)
この夏は海外生活で明け暮れた。
8月中旬からはケニア、その後にエチオピア。いったん帰国して10日余りを過ごし(貸していた愛車が大破した顛末を聞いていた)、そしてバングラデシュに行って来た。
自分の研究だけならエチオピアに行けば済む話であるが、ケニアとバングラに行ったのにはワケがある。私が指導している大学院生がそれぞれケニアで1人、バングラデシュで2人、調査をしているのだ。それぞれ「ソマリ人の母親の健康意識と子どものケア」「バングラデシュの多元的医療体制」「マラリア罹患者の行動と意識」といったような研究テーマを掲げているのだが、私はそもそも医療系でない上に、ケニアもバングラデシュも馴染みが薄い。というか、バングラデシュに関しては行ったことすらないという不利な状況にある。
これはぜひ現地で指導しなければ、と思ったのがそもそもの発端である。院生たちも「来て欲しい」と言ってくれるし、幸い予算もあるから、出かけない理由がなくなってしまった。
ケニア北東部は、地理的には私のフィールドに近いこともあって、辺りの風景や人々の感じにあまり違和感を感じない。ソマリ語も、エチオピアで耳にする言語に似ているところがあって、人々の言っていることは分からないのに、なんとなく分かった気になれる。ここで子連れで活動をしている院生NYさんに同行して病院がない地域での巡回医療を見たり、NGOの活動を見学したり、NYさんの調査を観察したりして、彼女の調査の進め方についてディスカッションをしてきた。
それに比べると、バングラデシュには、なにもかもが分からない状態のまま行ってしまった。ガイドブックを自宅に置き忘れるという失敗もあったのだが、まあ行けば何とかなるという気楽さもあった。
実際、行ってみたら何とかなった。ほとんどはベンガル語に堪能な院生たちのおかけなのだけど。
院生たちの研究は、形式上は「私と院生との共同研究」である。気にもとめていなかったのだが、相手先の研究機関に提出され計画書には「研究代表者:増田 研」と書かれているのだった。困ったことに私は、自分がやったことのない保健医療分野の研究を導く立場になってしまっているのだ。
とにかく、私が滞在している間に段取りを一気に進ませようと、あらかじめいろいろと準備はしておいた。実際の調査にはバングラ人の助力が欠かせないので(たとえば現地のアシスタントとか、調査票の翻訳とか)、そういうのもこの機会に一気に済ませてしまおう。
院生ORはかつて2年間この国で活動していたので、ベンガル語がペラペラである。ケニアと違ってバングラデシュでは英語がほとんど通じないので、ORの通訳がないと私は買い物ひとつできない。
とにかくORのフィールドではGPS片手に村を歩き回って地図を作り、伝統的治療師やらアーユルヴェーダやらのいろいろな医療施設・薬局を訪ねまわった。行った先すべてで、私の肩凝りと頭痛を訴えて薬を処方してもらうという「おとり捜査」的なこともやったし、祈祷師のマッサージも受けた。
もう一人の院生SHの研究計画は「女の子一人で大丈夫なのか?」と、こちらを不安させるほどの壮大なものなのだが、まあ彼女ならなんとかやってしまうだろう、と思うことにした。連日、移動を繰り返してあちこちを訪問してまわり、深夜に及ぶマンツーマンのゼミを開催しているうちに、「まあ、なんとかなるやろ」と気楽に考えられるようになってしまったのだ。
と、まあ、それなりに成果をつかんで帰国したのだが、じつのところ、今はめちゃめちゃ凹んでいるんである。上にも書いたように、私の医学的な知識は乏しいし、開発実務の経験もないから実践的な何を教えられるわけでもない。
オレはこのこの大学院で、いったい何をしているのだ?
人生の新たなステップを踏むべくやってきた院生を「指導する」という重大な役割を引き受けていながら、一体全体オレが彼女たちに教えられることなどあるのか?
ダッカの空港で2人に別れを告げ、フライトに乗り込んだ途端にそんなことを悩み出してしまったのだ。
私が伝えられるのは、アフリカの僻地でテント生活をしながら身につけた「そこにいれば、何かが発見できるだろう」という、漠然とした楽観的気合いだけだ。だから、ベンガル人家庭にホームステイするなんてこともへっちゃらなのだけど、そんなものが何になると言うのだ?
医学や開発の世界は、確立された「方法論」が支配する世界だ。たいていの研究は予測可能な範囲のなかで展開され、それを堅実にこなして、シャープだけれど小粒な成果が求められる世界である。私がやってきたような「壮大なテーマと地道な調査、そしてハッタリの議論」というヤクザな分野とは、まるで世界観が違う。
彼女たちは指導教員選びを間違っている。そんなことを思うこともしょっちゅうなのだが、現地でいろんな発見をして楽しみつつ、苦しんでいる彼女らを見ると、こうも思うのだ。
ああ、彼女らはいま人間を相手に頑張ってる。この点だけでもオレはフォローできたらなあ、と。
それが出来ているかどうか、あるいは、出来るのかどうか。自分でもまるで分からない。
バングラデシュは貧しい国だが、エチオピアなどに比べれば水が豊かで、食べものが豊富で、人々の感じも「馴染みあるもの」だと感じさせた。もし自分のフィールドが、エチオピアでなくてバングラデシュだったら、私の人類学的経験も違ったものになっていただろうし、エチオピア味わった余計だとも思える苦労もしないで済んだかも知れない……などといったことも、ちらっと思ったりした。
バングラ滞在3日目にはすでに、分かりもしないベンガル語の会話の半分くらいが理解できている気がしてきた。まわりの人々にも「あの先生はベンガル語が分かってるんじゃないのか?」と言われてたようだが、もちろんほとんど分かっていない。文法も語彙も知らないのに分かった気になれるのは、たぶんそれなりの「馴染み感」があったからだろう。
何日目だったか、ベンガル人の一般家庭の庭先で、サザンを歌う羽目になってしまった。(元はといえばORが恥ずかしがって歌うのを辞退したからだ……オレに矛先が回ってきた)。カラオケでいつも歌うあの歌を、もちろん日本語で伴奏もなしで歌ったわけだが、どういうわけかとてもウケた。いつも仏頂面をしているその家のお母さんまで、わざわざ褒めに来てくれた。
言葉が通じなくても、案外いけるんじゃないのか? ってな手応えが、ひょっとするとバングラでの最大の収穫だったかも知れない。同じ感覚は、きっと過去に何度もエチオピアで味わっていただろう。私はその感覚を忘れていただけなんだろう。
バングラでは、教師として、研究指導をするために行ったのだ。なのに、なんとなく、いろいろと息詰まっている自分のために行ったような気がしてきた。凹んでる場合じゃないんだよな。
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