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Talk184:指さして、雲の高みに導け

(Nov.16/2009)


 平成21年度後期が始まって1ヶ月半が経過した。最初の週はバングラデシュに行っていて留守をしたし、今月第一週もバングラにいた。今年はすでに2ヶ月半を海外で過ごしている計算になるが、開発途上国を渡り歩くことそのものは有意義で楽しい経験であるものの、そのしわ寄せは決して小さくない。

 まず何より、同僚に迷惑をかけている。たとえば今回のコロキアムのポスターは、バングラに旅立つ前日に完成させ印刷までやったが、貼り出したり告知したりする作業は人任せにしてしまった。

 休講も多くなっている。出張のために休講にせざるを得なかっただけでなく、会議で休講、というのもいくつもあるから、どの講義を何回休講にしたのか自分でも把握できなくなってきている。

 そんなしわ寄せを、どうにかクリアしながら、これから2月までは論文指導に全力で取り組まなければならない。今年は卒論が5人、修論が3人だ。全てが気合いの入ったフィールドワークの成果であり、いくつかは学術的にも極めて重要な意義を持つもので、私が書くような論文の水準をはるかに超える可能性を秘めている。私も手を抜けない。

 自分で言うのもなんだが、うちのゼミの卒業論文は全体的にかなりのレベルに達している。どの論文もすくなくともひとつはキラリと光るオリジナリティを宿しているから、論文と認められる最低限の水準はクリアしているし、論述の手続きも瑕疵の無いようにやっている。

 二次資料に新しい切り口でオリジナリティを出すか、それとも、集めた一次資料の質と量で勝負するか。私が学生たちに迫るのはこの二択だ。そして、文献派でないかぎりは、後者を選ばせる。学生たちもそのつもりで増田ゼミに来ているのだから、みなフィールドに出ることについては躊躇がない。

 フィールドといっても多種多様である。これまでの卒論を見ても、たとえばキャンパス内で体当たりインタビューを試みたものがいくつもあるし、その一方で自治体の担当者にたくさん会ってきた学生もいる。GPSとデジカメを持って炎天下歩き回った学生もいれば、お年寄り相手にインタビューを10数時間やって来た学生もいる。今年は明治時代の新聞(マイクロフィルムでしか残されていない)を読み解く作業に没頭する学生がいる一方で、寂れかけた商店街の出口調査を繰り返すのもいる。

 こういう調査で必要なのはトライアンギュレーションだ。インタビューをやったといっても、その「言葉データ」を羅列するだけでは論述はできない。各種の資料を集められるだけ集めて、いろんな角度から検証していかなければならないのだ。それを出来るかぎり全部やらせるのが増田ゼミである。

 だからこそ、「ウチの卒論はかけている時間が違いますから」と大見得を切れるのだ。

 そうそう、今回は「質疑応答の作法」について書くんだった。

 文化環境コロキアムで卒論と修論の中間発表会をやるようになったのは、学生たちの研究の水準があまりに低かったからだ。中間発表をやって、皆の目に触れさせる機会を作れば、それが刺激になって学生も頑張るだろうし、外部からのコメントをもらう機会を得れば、うちのゼミで言う「特オチ」もなくなるだろう、というのがそもそもの目論見だった気がする。

 特オチというのは、新聞業界用語である。他社の新聞がみな取り上げているニュースを我が社が取り上げ損ねていたら、それは特オチである。ルワンダ内戦のことをテーマにしているのに、文献一覧に武内進一の論文が無かったら特オチだ。アフリカの民族紛争について語ろうとしているのに、栗本英世の研究が参照されていなかったら、それは特オチだ。そんなの、一度外部の目にさらせば防ぐことが出来る。

 労働白書だけを資料にしてフリーターの現状を語ろうとしたりするような手抜きは、中間発表をくぐり抜けたあとではやりにくくなる。それも中間発表をやらせる目的のひとつである。

 教務委員としての仕事でもあるので、昨年は文系の卒論発表(最終の発表)を全て聞いた。中間発表をくぐり抜けた卒論と、それらをまったく経験していない卒論のあいだには、雲と泥ほどの違いがあるのをはっきり確認した。簡単なことで、雲は「論文」にしようと頑張っているが、泥はレポートと論文の区別すらついていないのである。雲泥の違いという比喩表現は、なるほど、これほどの違いを指し示すものであったか。

 よって、ゼミ選びの相談に訪れる2年生たちには「レポートと論文の違いって分かる?」と聞くようにしている。たいていの学生は答えられない。勉強(learn)してそれを報告(report)するのがレポート、「すでに分かっていることと、自分が明らかにしたことの区別がきちんとついている(つまりstudyしている)」のが論文である。もちろん2年生たちには、きちんと「論文」を書かせてくれるゼミを選ぶようにアドバイスする。

 泥にまみれるのを「フィールドワーク」だと勘違いするひともいるが、現場に行ったってレポートと論文の区別がつかないようじゃ、やはり「泥は泥のまま」ということになる。

 いうまでもないことだが、こういう発表機会にするべき質問とコメントは、その論文の執筆を直接・間接にサポートするようなものでなければならない。もちろん、不明な点について質問をする、というのも可能である。オーディエンスの中には学生もたくさんいるわけだが、彼らがそういう簡単な質問をするのは一向に構わない。学生なんだから。

 だが、教員はもう一段階上にいなきゃならん。前々から思っていたことだし、これまでもこのサイト上で書いてきたことだけど、学生の発表に対して「自分が知りたい些末なこと」しか聞かない教員は、まったくプロらしく見えない。内容についてあれこれする前に、メタレベルから質問とコメントをコントロールできるのがプロじゃないだろうか。

 とある学内シンポジウムを開催したときにも、似たようなことがあった。パネリストは院生4人。それぞれが特色ある発表を終え、全体討論にはいったとき、ある質問者は自分の聞きたいことだけを延々と質問していた。そして、その質疑応答はシンポジウム全体の討論からはるかに遠いところで展開され、貴重な討論の時間を無駄にすることになった。

 そんな質問、終わってから個人的にすればいいじゃねえか。

 学生たちがもがき、あがく研究実践を、メタレベルの高みから見物することが必要なんだ。地面をはいつくばっている彼らに見えていない道筋は、高みからはよく見える。遭難者は次の山小屋がどの方角にあるのか知らない。空を飛ぶ「われわれ」にはそれが見えている。

 それが見えないような質疑応答しかできないのなら、泥はいつまでも泥のままだ。指導ってのはな、「指して導く」と書くんだぜ。指さして、雲の高みを目指せよ。