Talk188:シェアの度合いとメタストーリーの共有
(Apr.10/2010)
卒業式・修了式がおわって、今年の学生指導も一区切りとなった。今年は私の指導のもとに卒論4本、修論3本が提出された。フィールドは日本からアフリカ、南アジアにまたがり、時代も現代から明治時代までと幅広い。これらのひとつひとつに対応しながら、しかも2つのキャンパスを行ったり来たりしながら論文指導をするのはほんとうに大変だった。
ただ、「私の指導のもとに」と書いたものの、指導教員としての私の貢献度がどれほどのものなのかは、よく分からない。私の指導はゼミやら個別指導やらで、時には一人の学生に数十時間の時間を費やし、文章添削も含めた原稿チェックに膨大な時間をかけるから、その点ではかなり貢献しているとも言える。だが、その一方で、それぞれの論文はやはり学生個人のものであるから私の貢献など算定するべきではないという言い方もできる。
論文そのものの指導は、学部の卒論の場合は4月から始まるが、その成果が文章化されて目に見える形をなしてくるのは1月に入ってからである。修士論文の場合は、院生たちが帰国したのが12月の初頭で、論文提出は1月末だった。したがって1月から2月の初旬にかけては、通常の授業や会議に上乗せする形で論文指導がどかっと押し寄せてくることになった。週末も祝日も関係ない日々が延々と続くのだ。
ちなみに、2010年1月の私の仕事をお金で換算すると、実働時間ベースで「時給900円」である。深夜に研究室で、あるいは自宅で論文添削をこつこつやっていても給料は増えないから、仕事をすればするほど労働の単価が下がっていくのだ。その分、最終的な成果が実りあるものであればよいのだが。
今回の論文指導でつくづく思ったことがある。それは「シェアの度合い」と「メタストーリーの共有」だ。
論文指導を「実のあるもの」にするためには、計画立案の段階から紆余曲折のプロセス、データ収集、データそのもの、分析、執筆という、あらゆる過程をシェアしていなければならない。もちろんこれは理想にすぎないのだが、でも教員の仕事は「研究の素人に研究の醍醐味を理解し、目的を達成してもらう」ことだから、本来ならばここまできちんとやらなきゃならない。
私は「アンチ放置主義者」である。放置主義(あるいは放牧主義ともいう)の指導教員のもとで立派な卒業研究が作成されたのを私は見たことがない。もしそういう例があったなら、それは相当な「できる学生=研究的に自立した学生」で基礎体力に不安のない場合か、あるいは、副指導の先生がそれを補ってくれた場合だろう。
論文指導は、そのシェアの度合いの「深さ」によっていくつかのレベルに分けられる。
(1) データ収集から問題設定にいたる、あらゆる場面を共有する「一心同体的論文指導」。
(2) データ収集は学生がやり、生データと分析のプロセスを共有する「シェアされた論文指導」。
(3) 原稿のやりとりで済ませる「添削だけの指導」。
(4) なんにもしない「放置」。
もちろん究極の理想は(1)なのだが、これは「学部生ゼロ、院生一人」という条件の時にのみ可能になる。だから私の場合には無理だ。
現実的なのは(2)である。(3)と(4)は問題外。(もっとも3と4の間に、まだいくつかの段階を設定することもできる。)
データの整理と分析のプロセスがそこそこ「シェア」されたとして、次に必要なのは「メタストーリーの共有」だ。
メタストーリーとはなにか。それはストーリーの上位にあって、ストーリーの語りそのものを語るストーリーだ。なんのことか分からないだろうから、一般的な言葉に置き直せば、つまり「論文作成途中のディスカッション」のことである。
私の論文指導では、学生たちが執筆過程に入った段階からメールによる原稿のやり取りが中心となる。学生たちは書きかけの原稿を私に送付し。私は送られてきた順番に文章添削をしながら、要所要所でコメントを残すのだ。(ここでMS Wordの履歴記録機能を使う)。文章添削はかなりしつこい。文章がなっていないことは、すなわち論理が成り立っていないことを意味するから。
原稿に書かれた文章は、言ってみれば「論文のストーリー」である。そして原稿のやりとりによる論文指導は、このストーリーの語りそのものをいじる作業である。その際に肝心なのは、そのストーリーを組み立てる意図や背景という「メタストーリー」が分かっていないと、添削がまるではかどらない(ときにはまったくできない)ということなのだ。
桃太郎を例にとろう。
「昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいました……」というのはストーリーの語りだ。だが、なぜ「昔々……」という曖昧な時代設定なのか、なぜ「おじいさんとおばあさん」という登場人物でなければならないのか、という意図の部分はストーリーには書き込まれない。それはメタレベルのストーリー、つまり「メタストーリー」であって、制作会議や編集会議で交わされるディスカッションにしか含まれない。
「突然現れた猿にきびだんごを贈ることで家来にした」という展開についても同じだ。なぜ猿なのか。なぜ「きびだんご」なのか。なぜ贈与行為を行うのか。その制作意図はディスカッションなしにはシェアできないし、そのストーリー自体へのコメントや添削だってやりようがない。
桃太郎というストーリーの重要なコンセプトである「きびだんごの贈与」という場面を見て、いまさら「なんでここで贈り物させるのか?」なんてコメントを残すのは、プロデューサーとしては恥さらしこの上ないだろう。
学生たちには、できればもっともっと自立して論文を書いてほしいところだが、私のほうも欲張りで、どうしてもその論文に「自分が指導をした」という痕跡を残したいところがある。だからしつこくディスカッションを繰り返したいし、時間の許すかぎり添削をやっておきたい。
だが、その添削だっていろんな面で「共有された何か」があってこそなのだ。共有された論文指導ですら、数十ページの添削に5時間もかかることだってある。シェアの度合いが低い原稿にコメントするのは容易ではない。
できるだけ深く関与できること。増田ゼミにはそれを許してくれる学生に来てほしい。私はその深さを保つためにこれからは学生数を絞り込むつもりだ。今年だってその深さをなるべく維持するために、けっこうなものを犠牲にしている。
もっとも。そこまで付きあったところで、それが感謝されるかっていうとそうでもないんだけどね。
平成21年度の増田ゼミの論文概要はこちら。
MPH1期生 修士論文要旨
環境増田ゼミ4期生 卒業論文要旨
かなりシェアされたものから、そこそこシェアまで、取りそろえております。
前のページへ