Talk189:技法の習得
(May 16/2010)
今日、本の買い物をした。21冊、しめて8万円ほどである。もちろん自腹では買えない。研究費を使うのである。
私のような研究者にとって、本を買うことは研究教育活動の重要な一部である。
たとえば、アフリカについての人文系研究書(とくに日本語のもの)が出版されたら即座に手に入れる。私物にしたかったら自腹で買う。汎用性が高いと思われれば研究費で買って図書館に登録する。英語のものは数が多すぎて、さすがに何でもかんでも買うわけにはいかないので、自分の研究に関するものをセレクトする。
長崎大学でアフリカの社会に関する図書がもっとも充実しているのは、私の研究室だろう。うちの大学にはアフリカを舞台にして研究をしている人がわりと多いのだが、その多くがアフリカ「社会」についてほとんど何の関心も持っていない。おのずとアフリカの社会的な側面に光を当てた書籍は私のところに集中することになる。買えば買うほど占有率が上がるのだ。
そのせいか、長崎大学図書館で「アフリカ」の本を検索した人は、最終的に私の研究室にたどり着くことが多い。うちから貸し出されるアフリカ本は結構多いのだ。書籍に汎用性がある、というのは、こういう現象を根拠として言う。
さて、このところ買い集めているのは「調査手法」に関する書籍である。日本語で出版されている調査手法の本は、この10年くらいで爆発的に増えたし、英語のものならそれこそ星の数ほどもある。
最近は学部ゼミでも、院ゼミでも、あるいは講義でも、学問の「中身」ではなく、むしろその「方法」について話すことが多くなった。たとえば、この数年、3年生のゼミでやるのは、インタビューの方法と実習、構成を考える実習、文章を書く実習、参考文献を集めてリスト化する実習、研究課題を仮想的に設定して問題設定を行う実習、などなどである。
そこには文化人類学的な知識の習得というプロセスが入り込む余地はない。いや、以前はやっていたのだが、「技法習得」に時間がとられるようになって、いつのまにかディシプリン教育は隅に追いやられてしまった。私のところに来る学生は、私がやっているようなテーマにそれなりに関心があって来るわけだが、かといって文化人類学を学びに来ているわけではない。文化や社会や歴史について深い理解にたどり着こうとする者が、文化人類学を学ばなくてはならない理由はないのだ。そういうのは、論文作成のプロセスのなかで身につけていってくれればいい。
そもそも、文化人類学というディシプリンを学ぶ「座学」の部分は、講義科目がひとつあればそれなりにカバーできてしまう。残念なことに、いまの環境科学部には応用人類学のひとつとしての「環境人類学」は用意されているが、基礎的な「文化人類学」はない。同じような事情で、「社会学」がないまま一年生からいきなり「環境社会学」があり、「経済学」がないのに「環境経済学」があったりする。限られた人員で「環境学」という複合領域を教えなければならないマルチ・ディシプリナリー学部の宿業である。
結局のところ学生たちは、基礎の習得をすっとばしたまま応用科目を「つまみぐい」したうえでゼミにやって来る。大学生というのはおおむね、授業以外の部分を自学自習でカバーしようなどとは考えないから、結果的に「基本的考え方」を身につけずに、ただ「応用的知識」と「ある種のイデオロギー」だけを耳学問して私のような文化人類学者のところにやって来るわけだ。
知識の習得が不完全なら、学問の技術とマナーはしっかり学んでいるかというと、けっしてそうではない。3年生になってもレポートが「です・ます」調だったり、段落分けができなかったり、参考文献と参照文献の区別がつかなかったり(読んでもいないし引用もしていない本が「参考文献リスト」に掲載されている卒論を見てごらん)、そういうのがごまんとあるのを見ると、技法のほうも危なっかしい。
ゼミという学問共同体でするべきことは多岐にわたる。その中で最も重要なのは論文指導・研究指導だ。
研究指導でやることは、大別すれば「課題設定」と「調査技術」の習得である。
課題設定はとりわけ重要だが、このへんは分野によってだいぶ事情が異なる。自然科学系の研究室の場合は、教師が課題を設定して学生に下請けに出す、というのが通例らしい。その研究の意義を学生が自分で考える必要はとくにないのだろう。だが、人文系ではそうはならない。
最近の私は、学生の課題設定を手伝うときに「マクロ・レベル」「メソ・レベル」「ミクロ・レベル」の3つのレベルに分けて考えるように仕向ける。そのうえで、それぞれの設定の妥当性と社会的意義を、公になっているデータや客観的証拠でもって裏付けてもらう。
学生たちを見ていると、その課題設定をマクロの問題意識から出発させる「マクロ系」と、些細な「気づき」から出発してマクロな問題系に位置づける「ミクロ系」がいることがわかる。
かつて「周りの人たちを見ていると、肉を食べたら烏龍茶を飲むみたいに、プラスマイナスゼロを目論むような選び方をしている気がする」という些細な気づきから出発して、それを「ヘルスリテラシーの獲得」というマクロな問題系に位置づけたゼミ生がいた。他方で「日常生活レベルの日中関係」というマクロ・レベルの問題意識から出発し、明治時代の新聞資料を用いた調査へと結実させた学生もいる。
「メソ・レベル」から出発するというのは、たとえば「まずはフィールドに足を運ぶ」というタイプである。フィールドに足を運び、そこから導き出された結果(ミクロ)を練り上げるなかで、マクロな問題系への位置づけを図るのだ。うちのゼミではこれが結構多いかも知れない。
こうした課題設定のお手伝いは、しかし、調査手法の習得と表裏一体である。調査手法の習得とは具体的には、情報の収集、解読、整理、再構成などの作業を身につけることである。収集、解読、整理、再構成、これら4つのどれが欠けても研究は進められない。いま買い集めているのは、そういう方法論(メソドロジー)を論じた書籍ばかりである。「HOW TO」本すれすれのものから、方法論を理念的に論じるもの(論じすぎてかえって使いにくい)までさまざまなものが含まれる。
私が大学生だった頃、こうした技法のなかではっきりと系統立てて教えられたのは「図書館の使い方」だけだった。ネット検索など思いもよらず、図書館の蔵書すらカードをたぐって探していた時代である。情報は、検索しダウンロードするものではなく、所在を突き止めて自分でハンティングする対象だった。
エチオピアのフィールドワークに出向いてからは、あの手この手で調査をした。どんな情報が、どんな調査手法によって得られるかを教えてくれるメソドロジーは身近に存在しなかった。結局のところ、論文、本、エスノグラフィーをたくさん読み、そこに書いてあることから方法論を「逆算する」というやり方しかなかったのだ。今となっては、そういうやり方しかなかったことが技術を血肉化させたという点で有利に働いたと思う。
さて、1年生や2年生の演習科目で、上に書いたような「技術」はどれくらい身につけられるものだろうか? 低学年でも演習科目があれば、それなりに課題設定や調査技術の一端には触れているはずである。3年生になった時点でも読書感想文並みの「レポート」しか書けないような学生がいたとしたら、それは大学生活の前半でそういう技法を学ばなかったか、学ばせてもらえなかったか、あるいは、学ぶつもりがなかったかのいずれかである。
そういう学生には、HOW TO本すらもなんの効き目もない。今日発注した書籍がどれだけ意義ある買い物になるのかは、それを使う学生次第である。なにせ、本自体は「汎用性」が高いものばかりだからね。
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