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Talk194:我々が前提としていること

(Aug. 17/2011)

 8月15日になって、ようやく今年前半の授業をすべて終えた。平成23年度の前期は、学部ではフル(15コマ)講義が1つとチェーンレクチャーの分担がいくつか。大学院でフルが1つ。非常勤でフル2つにハーフ1つ。あとは学部のゼミと不定期の院ゼミ、それに修論指導が一件。これだけをこなした。

 いまはテストの採点などをやっている。

 授業の準備は時間がかかるものもあるし、例年どおりの内容に多少の加筆修正をするだけで済むものもある。ときには講義の4倍くらいの時間をかけて準備することもあるが、時間的コストのことを考えたら明らかに不経済な仕事のやり方だ。

 でもって、準備をやりながら、ふと「オレが急に死んだとしたら、この学校はこの講義をどうするつもりだろう」と考えた。もちろんやるだろう。必死になって代役を探して。

 3月の地震で、被災地の生活基盤がガタガタに壊れてしまったのを見てからというもの、ずっと考えていたことがある。それは「社会というのは、保証のないもの、不安定なものを、ひとまず保証付き、安定的だと前提することで成り立っている」ということである。

 べつに原発のことを言っているわけではない。

 世の中は、人と人が依存し合い、交換関係をその都度その都度切り結ぶことで成り立っている。それは「その人がすぐには死なないこと」を前提としている。

  誰かと一緒に仕事をするとしよう。その人が明日死んでしまう可能性は、シンプルな計算をすれば「50%」である。だが、実際には、人が死ぬのには無数の要因があって、そのどれか(たとえば1000年に一度の確率と規模で押し寄せる津波のような)が強烈な効き目を示すようなことがなければ、その「50%」はかぎりなくゼロに近いモノとして扱える。

 私たちはそうやって、目の前の他者が「すぐには死なない」ことを前提としている。

 そりゃそうだ。ふつうは「この人は明日死ぬかもしれないから、代役を用意しておこう」などとは、考えない。

 原発のことでは、リスクヘッジの善し悪しが議論されているけれども、私たちはたいてい、「目の前の他者が死ぬこと」を前提としてリスクをヘッジしたりはしない。

  だけれども。一方で、私たちはみな「代わりの聞かない固有性」を担保されている。私たちは「すり減ったら取り替えればいいタイヤ」のようには扱われない。 私がいなくなっても、文化人類学の授業をこなせる人はいくらでもいるが、私と同じ性能を発揮できる人はいないだろう。それは私の性能がいいということでは なくて、「私のような性能は、私にしかない」という、個体差のようなものである。

 そういう固有性を帯びたモノとして私の仕事は成立しているので、もし私が今晩死んだら、明日以降、その欠落を埋めるのは相当に難しいはずだ。欠落はパテでも塗ればなんとかなるが、そのパテを馴染ませるには結構な年月がかかるものなんである。