Talk195:大学にいると分からないこと
(Aug.18/2011)
5月のとある週末、ひょんな偶然もあって、2人の中小企業経営者と話をすることになった。2人は全く異なる業種で活躍しているのだが、ともに長崎生まれで、長崎でビジネスを頑張っているということが共通している。ちまにみ一方は食品産業、もう一方は(うまく説明できないのだが、敢えて言えば)古物商である。
その2人が、共通して口にしたのは「景気の悪さ」。もうずっと続いているデフレ不況が、この2年ほどでさらに勢いを増し、ただでさえ思わしくない長崎の経済はズタズタだという。
それに追い打ちをかけたのが3月の地震と津波だという。長崎ではまったく被害のなかった震災だが、その後の自粛ムードがもたらした経済的打撃は計り知れな い。どこの会社がつぶれた、どこの店が夜逃げした、という話はそこいら中に転がっている。今日お会いした2人も、「明日は我が身か」という思いでいるのだ ろう。
大学にいると、こういうことを肌で感じることができない。大学人だって、学費の安い国公立大の入試倍率が高くなっていることや、学生の就職内定率がいっこうに上がらないという事実から、世間の経済的実情を間接的に知ることはできる。
でもそれは、間接的で、しかも「知るだけ」であって、肌で感じるまでにはいたらない。なぜかといえば、国立大学は(予算の縮減というお国の締め付けには苦しめられているものの)、それで倒産するかといえば、そうではないからだ。
世は不況下にある。長崎大学もいつ倒産するか分からない。なんて考えている長大職員はそうはいないだろう。私だって思っていない。
大学の特殊な状況については、もうひとつ、「大学にはリストラがない」ということも挙げられる。仕事をさばける人、研究実績を挙げられる人から出世して いくのは当然として、その逆であってもクビにはならない。私自身は、大学は象牙の塔であったほうがいいと考えているが(そうでなかったら大学である意味がない)、国から補助金までもらって研究をし、未来の人的資産の価値を高めるための教育に従事しているという社会的責任にはもっと敏感であるべきだとも 思っている。
6月には台湾にまで出向いて明治時代の長崎の社会状況を論じるという研究を発表してきたが、これがいかなる意味で社会のためになるのか。そのことの意味をきちんと理解し説明できるようにならないと、「お金をいただいて研究している」ことに対するアカウンタビリティーは保証されない。だが、そういう説明のロジックを上手にオープンにするのは並大抵の能力では出来ないだろう。下手な説明では「それで?」と言われてしまうのがオチである。
今日明日の運転資金の獲得に四苦八苦している人々がたくさんいるのだ。そのことを思えば、大学で研究し、教えていることはきわめて希有な僥倖だといわざるを得ない。
敷衍させて考えると、実学に走った研究者はその点では多少は楽をしていると思う。ガンの特効薬を作りました、と言われて、「それで?」とその社会的意義を改めて問い直す人はあまりいないからだ。いまの時代だったら「自然エネルギーの研究をしています」とか「放射能除去装置の開発をしています」という説明なら、実現可能性はともかく、すんなり受け入れられるだろう。
大学はもっと象牙の塔になっていい。いや象牙の塔であろうと努力すべきだ。すくなくとも長崎大学に来て数年経った私は、痛切にそのことを思う。
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