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Talk198:過去を知り、現在を理解し、未来を想像する

(Dec. 26/2011)

 1993年に初めて渡航してから、もうかれこれ19年にわたってエチオピアと関わり続けている。エチオピアでは長らく、南部のバンナという民族を対象とした研究を続けてきた。バンナは「エチオピアに在ってエチオピアに非ず」という場所であり、エチオピア「で」研究をしていても、エチオピア「を」研究しているという感じにはならなかった。

 それがここ1年ほどで変わってきた。北部のアムハラ州という、まさに「これぞエチオピア」という場所で実施されている国際保健のプロジェクトに間接的に関わるようになったのだ。プロジェクトはJICAと現地の保健局が共同で実施しており、農村の奥深くで発生する疾病と患者の情報をきちんと伝達する仕組みを開発している。どこでもそうだが、こうしたプロジェクトはまず試験的なパイロット版を実施し、それから次第に範囲を拡大していく(スケールアップと呼ぶ)。開発の手法はもちろん現地の事情に合わせてカスタマイズされるが、同時に、どこでも通用するような汎用性のある標準化された手法であることが大事だ。

 もうひとつ。こうしたプロジェクトには終わりがある。実施期間というのは3年とか5年といった単位で区切られており、それが終了したあとには完全に現地に明け渡されることになる。明け渡したあとにもきちんとシステムが稼働するようであれば万事オーケーとなるのだが、そういうハッピーな事例にはなかなか出会えない。

 はたしてエチオピア人は、外部からのサポートやインセンティブがなくてもこの活動を継続できるのか。

 物資の提供や技術の支援といった分野でならまだ可能性は高い。アムハラ州のバハルダールという町の市場では精米されたコメをよく見かけたが、これはなんと何十年も前に北朝鮮が導入したコメだという。湿地が多く、現地の主要作物の栽培に適さない場所ではいまでもコメが広く栽培されている。北朝鮮が撤退したあとにも、作物は残ったわけだ。種籾と栽培技術はこうしてドナー(資金と技術の提供者)がいなくなったあとにも定着したのである。

 だが、社会のシステムを変えるたぐいの、いわゆる「社会開発」分野ではなかなかそうはいかない。

 エチオピアの場合、つとに言われてきたのは「援助慣れ」である。80年代の緊急援助の嵐(We are the worldのときですね)があって、90年代以降の(つまり冷戦終結以降の)改革開放・民主化の時代になってからは、援助そのものが「金になるビジネス」として捉えられてきたフシがある。エチオピアでも多くのローカルNGOが設立されたが、その中のいくつかについては、国をよくしたいというモチベーションよりも、「国際機関からお金をもらって仕事をする」こと自体を狙っていると言われているのも確かだ。

 明治以降に日本が急速に近代化したのは「欧米に追いつけ追い越せ」という強い政治的モチベーションがあったからだと言われる。戦後の回復が早かったのも、アメリカの指導があったからというだけではなかっただろう。

 たとえば戦後の日本は、どこを見てもハエだらけ、蚊だらけで、子供はみな寄生虫に感染しているという、まるで今のエチオピアそっくりな状況だったわけだが、政府主導の(ちょっと狂信的とも言える)プロモーションがあって急速な環境改善が図られた(このことの例証を、昨年のゼミ生KMが卒論でやっている)。エチオピア政府がいま実施している健康普及計画に通じるものがある。

 エチオピアをずっと見てきて思うのは、彼らが新しいことに取り組むときに「過去を知り、現在を理解し、未来を想像する」というプロセスをすっ飛ばしているような気がしてならないということだ。それはエチオピアにおける開発プログラムの多くが「キャンペーン形式」を採っていることからも想像できる。1980年代には当時の社会主義政権によって大規模な識字キャンペーンが実施され、一時的に識字率は向上した。その成果もあって1986年にはユネスコから表彰されたという。だがその時に「識字になった」とされた人びとも多くが自分の名前をやっとのことで書けるという程度の識字力しかもっていなかったし、キャンペーンが終わってみれば国全体の識字率はみるみる低下した。

 インセンティブがあるからやる、お金がもらえるからやる、視察が来るからやる、では続くわけがない。本来は「過去はこうだった、現在はこうである、未来はこうなってほしい」というビジョン(この言葉自体はあまり好きではないが)があっての取り組みではないだろうか?

 私は途上国での健康教育に詳しいわけではないが、管見の限りでは、こういったヘルス・プロモーションは得てして技術的なものに偏っているように見受けられる。「過去を知り、現在を理解し、未来を想像する」。そういうプロセスがなければ社会開発も「技術」と「モノ」と「カネ」の話に行き着いてしまうように思われてならない。

 エチオピアのみならずアフリカ全般において、日本はテクノロジー先進国として名高い。人気の自家用車はトヨタのカローラ(の中古車)で、業務用車のスタンダードはランドクルーザー。商人はみなイスズのトラックを購入する。だが、どのようにして日本がそういう国になったのかということはほとんど知られていない。エチオピア人と話していると、彼らがあたかも日本ににょきにょきと自然に工場が生えてきたかのような感覚を持っているらしいことに気付かされるのだ。「日本ってそこら中に工場があって仕事がたくさんあるんだろ?」と言われたり、「お前の家も工場なのか?」と聞かれたりすることもざらだ。それは違う、日本だって50年前はいまみたいじゃなかった、と説明しようにも、話がややこしすぎて説明できない。

 工場が増え、産業が振興すれば、おのずと国家は栄え、みんなが中流になれる。それは現実のストーリーでありながら、同時に幻想でもある。過去10年間にエチオピアでは自動車の数がめっぽう増えたが、同時に首都アディスアベバの空気は真っ黒になった。高度経済成長期の日本が多くの公害に見舞われたことから学んでもよさそうなものだが、「エチオピア人にとっては空腹を満たすことが先決で、空気のことは二の次だ」と言われてしまえばそれまでだ。

 持続的発展という言葉があらゆる分野におけるキーワードとなって久しい。持続可能性(サステナビリティ)を考えるとき、人びとは未来を、あるいは現在から未来にいたるタイムスパンを思うだろう。だがそれが持続的である必要を本当に実感するのは、過去を知ったときではないだろうか。今年の原発災禍は私たちが簡単に神話を信じてしまうほど愚かであることを知らしめたが、同時に、きちんと学び直すことの重要性もまた教えてくれた。

 津波の記憶は、あるときは歴史記述のかたちで、またあるときは石碑というかたちで、あちこちに残されていた。過去を知り、現在を理解することが、未来への想像力を鍛え、粘りのあるモチベーションを生み出す。その場かぎりのカネだけでなく、むしろそうしたモチベーションを得ることそのものがインセンティブになるような、そんな社会開発のモデルはないものだろうかと、つくづく思うのである。