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本当の私を見つけて!

(Apr.9/2005)



先日、大学構内の公会堂みたいなところで、「自分探しの旅」という講演会の看板を見かけた。うちの大学の学生と思われる若い人びとが列をなしていた。

自分探しというのは、もうだいぶ定着したキーワードのようである。そして私はこの言葉が嫌いだ。

くだんの講演会は、おそらく就職活動を控えた学生たちに、自分に適した職業についてもらうためのアドバイスをするものだったのだろう。多くの学生は3年生の終わり頃からさまざまなセミナーに参加し、求人情報を漁り、リクルートスーツという見栄えのしないユニフォームに身を包むようになる。4年生ともなれば生活のメインは就活、それが終わってやっと卒業論文に着手という手順を踏むらしい。

そうした就活の始動に当たっては、自分がどういう人間で、何ができるのか、何に向いているのかを知ることはたしかに必要なのだが、それがいちいち「自分探し」などという概念でくくられてしまうのを見ると、私などはどうにもイライラしてくるのだ。だってそうじゃないか。自分探しセミナーに足繁く通う人間は、「自分のことをよく知らない」という自分の姿をすでに見つけているのだから。

もちろん「あたし、自分のことがぜんぜん分かんないんです」、なんていう自己表現では、厳しい就活を乗り切れないのは目に見えている。だからこそ彼ら/彼女らは救いを求めて自分探しのテクニックを学びに行くのだろう。でもそんなのに、ヒントはあっても、テクニックは期待できないんじゃなかろうか、というのが素朴な感想だ。

自分探しには、探すのが「自分」、探し物が「自分」という分裂した構図がある。自分で自分を褒めてあげたいと宣ったのは、かの有森裕子だが、ここにも「褒める自分」と「褒められる自分」が分裂しているわけだ。もちろんそういう分裂をもって、自分をいたわったり、自分を嫌いになったりする人を毀損するつもりはない。人間は言語を獲得したときから主体と客体に分裂してきたのだから、そうした分裂状況自体がきわめて人間的なことなのだ、ということくらいは確認しておこう。

だから、私が「自分探し」にいらつくのは、そういう分裂のせいではない。そうではなくて「自分探し」の発想の背後に、「本当の自分はどこかにあるはず」というマトリクス的世界観があるからなのだ。本当の僕はこんなじゃない、いまの私は仮の姿なのだ。いまの私は行くアテのないジグソー・パズルのピース。この世のどこかに私がぴたりと収まる場所があるはずだわ。でも私、自分がどんな形をしたピースなのか、知らないの。だれか教えて! だれか私の形をした空白を見つけて! 

大学の就職担当部署というのは、そういう人たちのために「空白」を見つけてあげるのも仕事にしているのである。就活市場というジグソー・パズル・ゲーム。

22 歳で自分を探すのはもう遅い、という気もするし、時期尚早という気もする。以前、高校生たちの進学指導をしていてつくづく感じたことなのだが、彼らに、自分の思い描く将来像を語ってみよといっても、ほとんどの高校生は語ることができない。その延長だと思えば、22歳やそこらで「本当の自分」(そんなものがあったとして)を明確に理解し把握するなんて、どだい無理な話なのだ。

そもそも、就活のために自分探しをすることは、ある意味で、教育の否定でもある。教育というのは人間の可塑性、つまり「ヒトは変わることができる」というのをベースにしている。でも自分の形にあった場所を求める姿勢には、多少形がずれていても自分のピースをねじ込んじゃえ、とか、しょうがないからこの部分の突起をすこし大きくしておくか、といったポジティブな発想がないように、私には、見える。卑俗な言葉を使えば、夢がない。

私はポジティブ思考を賛美する風潮には大反対だが、それにしても「自分探し」には、思い描くイメージと現実とをクールに使い分ける様子が見受けられて、いただけない。「彼ら」の、とっても小賢しい「本当の姿」が透けて見えてしまうのだ。

自分との対話、内観はとても大事だ。だが就活のためにそれを使っちゃいけないと思う。それだったらもっとがちがちに武装しなさいよ、こら、と言ってやりたい。「本当の自分」「ピュアなわたくし」を見つけて、その「素」のままでやっていけるなんて、甘えんじゃねえ! とも。