去年の今ごろ
(June 1/2005)
私の履歴書(このサイトのProfileというところに載ってます)を見てもらえば分かるように、学者の履歴書には学歴(正確には「学校歴」)と職歴という二つの欄が存在する。
学校歴のほうにはたいていは大学入学以降のことを書く。高校卒業から書かせるような様式もあるようだが、これだと私は「昭和61年6月:神奈川県立相模原高校中途退学、同年11月:文部省大学入学資格検定合格」というように面倒くさいことになってしまうので、なるべくなら学部を卒業した段階から書き起こしたいとつねづね思っている。
それ以上にいろいろと厄介の種をはらんでいるのが「職歴」あるいは「教育歴」の方だ。学校歴の方が、いわば「授業料を払って学んだ場所」を記載する欄であるのに対して、職歴の方には「お金をもらって仕事をした場所」を記すことが求められる。問題は、ことに私のような就職まで時間のかかった人間の場合に、そのどちらでもない避難所みたいな場所が出てくることなのだ。
たとえば、1年半だけ在籍した財団法人民族学振興会。ここには「研究員」という資格で所属したが、給料はなく、肩書きだけをもらうということで、いうなれば、履歴書に空白を作らないために籍を置いていた。(そのかわり、ここに属していると一人前の研究者として扱われるので、文部省(当時)の科学研究費を受けることができた)。
この財団は私がエチオピアに滞在している間(1999年9月末)に解散してしまい、私たち無給研究員はそれぞれ異なる機関に割り振られた。私の場合は神奈川大学の日本常民文化研究所とういところに所属を移した。所属替えにあたってはいろいろと手続きが必要だったのだが、私はフィールドに出ていて連絡がつかず、関係諸氏にずいぶんと手間をとらせた、後になって聞かされた。私は自分の所属替えを、後になって知ったのだ。私のために奔走してくれた方々、そして神奈川大学には深く感謝している。
ところで、この二つの機関からは私は給料をもらっていなかった。それどころか、肩書きを維持するために、神奈川大学には年間数万円を支払っていた。これは「学歴」だろうか? それとも「職歴」だろうか? そこで勉強していたわけではないし、単位を取っていたわけでもないので「学歴」ではない。しかし給料をもらってもいなかったので「職歴」にも含められない。(私は一応のところは、これらを「職歴」に入れているが、文部科学省はちがう解釈をしているかもしれない。どちらで勘定するかで今の給料の算定が変わってくるのだが、どのように解釈されたかは、私は知らない。どっちでもいいと思うけれど。)
いま現在の私は、長崎大学の助教授という公的な肩書きを手に入れ、3つの大学を含む4カ所で非常勤講師の職を拝命している。一週間をどのように過ごしているのかは、別コーナーの「Work Journal」(あるいはまとめ書き業務日誌、最近はあまり「業務の日誌」って感じじゃなくなりましたけれど)を見ていただくとして、まあ忙しいことは忙しいが、去年の今ごろに比べたらずっとマシという感触をもっている。今年は前期が学内で週3コマ、学外で週2にコマのみ(5月実績)。後期になると学内で4コマ、学外で4コマと増えてくる。それでも去年よりは、すくなくとも時間と体力の面では、余裕がある。
今回は去年までの私の週間スケジュールを書いてみたいと思う。

もっとも激烈だった週の一例として、2004年6月20日(日)から26日(土)までの一週間の行動実績を表にしてみた。
表中の「北久里浜」は私が働いていた学習塾(ウェブ上であることを勘案して、会社名は書かないことにする。この業界はいろいろとややこしいのである。)の所在地のことで、週に5日働く契約をしていた。一日の仕事をここで終え、自宅に戻るのがだいたい23時。その後の「テレビ&授業準備」に見られる「テレビ」とは、いうまでもない。サクサクだ。
火曜日からすこしずつ解説していこうか。朝7時半頃に起床し、風呂に入ってから身支度を調え、逗子駅・朝9時3分発の湘南・新宿ラインに乗って1時間揺られ、渋谷を経由して青山学院大学の青山キャンパス(青キャン)に出勤。2限目の授業を終えてから渋谷駅まで歩き(この間に昼飯を済ませることが多かった)、東横線で横浜まで行き(この間に昼寝をする)、京急で北久里浜へ向かう。ここで夜10時まで仕事をし、帰宅は11時前。この帰宅パターンはだいたいどの曜日も同じだ。
水曜日は朝8時半くらいに自宅を出て、逗子から大船、藤沢と経由して平塚へ。平塚駅前でブランチをとってからバスで平塚看護学校へ出勤。(一度だけクルマで平塚に行ったことがあるが、鎌倉の海岸線でヘビーな渋滞にはまってしまって、遅刻ギリギリだったことがある。) ここで12時まで授業をした後で、すぐに北久里浜へ移動。この日はすこし余裕があったので、午後は会社で昼寝をしていたと思う。そうでもしないと身体がもたなかった。
木曜日。9時3分の電車で逗子を出発し、横浜、東神奈川と経由して(たまに東神奈川駅のホームで立ち食い蕎麦を食べていた)淵野辺へ向かい、10時半から青学の相模原キャンパス(私は渕キャンと呼んでいた)で2コマ担当。15時に授業を終えると、すぐに横浜線に飛び乗り、北久里浜へ。体力的には木曜日がもっとも大変だった。
毎年、5月から6 月にかけての金曜日は、玉川大学から放送大学へのかけ持ちの日だった。もっとも放送大の授業は5週間しかなかったので(年間10回)、これがない週は、金曜の夕方こそが休息の時だったが。この移動は鉄道を使うとロスが大きいので、金曜日だけは車を使って出勤することが多かった(玉川学園にクルマを乗り入れるさいのゴタゴタについては、そのころのBBBを参照してください)。自宅を9時に出て、横浜横須賀道路を北上し、保土ヶ谷バイパスを経由して10時過ぎに玉川大学に着く。この出勤で大事なのは、9時にきちんと出発することである。これが15分遅れると、バイパスで悪夢のような渋滞に巻きこまれることになるからだ。ところが時間通りに出発しても渋滞にはまるが時々あって、一度など「こりゃ間に合わない」と思ったもののその日に限ってケータイを自宅に置き忘れ、渋滞を抜けてみたら授業開始まで5分。急いで公衆電話を探して休講の連絡をしたことがあった。(ほかにも渋滞情報を察知して高速を降り、放送大学神奈川学習センターの駐車場にクルマを停めさせてもらって、電車に乗って出かけたこともあった。こんなことならはじめから電車に乗れば良かった、とその日は呪わしい気分だった。)玉川では11時から2コマ授業。15時に終わってからふたたびクルマで横浜まで南下し、1時間ほどで弘明寺の放送大に着くと、すぐに授業の準備を始め、一段落付いたところで商店街まで弁当を買いに行き、これを食う。授業は18時15分から20時30分まで2時間半という長丁場である。終わるともうへとへとで、たいていはJ-WAVEなどを聴きながら一般道をちんたら運転して帰宅したが、この週(2004年6月25日)はどういうわけか深夜にプライヴェートな用事で出かけている。これだけ忙しい週だったというのに、なんだか元気だ。
土曜日は塾での仕事が詰まっていたので、午後早い時間から出勤して、22時まできっかり働いた。塾の仕事というのは授業をしている時間のほかにも、準備をしたり、添削をしたり、相談にのったり、質問に答えたり、補習をしたり、いろいろと忙しいのであった。
これが去年の今ごろの一週間である。ほかにもこの頃は、原稿の手直し、土曜日の終業後に映画館、朝イチのフライトで出張して夕方には東京に戻って授業、と、まあ、いま思えば軽いハイの状態だったみたいだ。しかも今と同じく、買い物は平日の空き時間に済ませ、夕食は深夜の帰宅後に作り出すという生活である。授業をしていた時間は一週間で24時間、大学の平均的な授業時間(1コマ90分)で割ると、週に16コマの授業をしていたことになる。(ちなみに2005年 6月は概ね週4コマである。)
もちろん、である。早朝から深夜まで会社に詰めている過労のサラリーマンたちに比べたら、こんなのは「大したことない」のかもしれない。だが考えても見てくれ。私の場合、仕事にメインとサブの区別がなく、しかも生活においてはオンとオフの境目を確定できなかった。自宅にいれば授業の準備、外に出れば週にのべ千人に授業を行い、その一方で研究に関することにも時間を割かねばならない。休日と呼べる日があれば、何がなんでも絶対に休んでやる、買い物でも映画でもなんでもいい、お金を使って遊んでやるのだ、という強い意志を持たないと、「休み」に時間が割けない状態だった。
以上が、一年前の私の日常生活の典型例である。長崎で迎えた新学期は、比べものならないくらい楽なのだ。もちろん今までは体験したことない会議とか、委員会とか、その他もろもろの仕事(よく「雑務」などと称されるが、これだって立派な仕事だ)に時間をとられるので、授業のコマ数が少ないからと言って全てにおいてラクチンというわけにはゆかない。だが、交通の便が悪いとはいえ、長崎は狭い町であるから、去年のような「一日24時間のうち4時間は移動に費やしている」というようなことはなくなった。帰宅が深夜になるのは酒を呑んだ時だけだ。睡眠時間だってちゃんと取れている。
冒頭の履歴書の話題に戻れば、あれだけ忙しくしていて、しかも充実した仕事だった「塾」のことは、履歴書には書いていない。大学世界では「学問の世界で何をしてきたか」だけが問われるのであって、中高生相手に英語を教えるといった民間的要素は排除される。たとえそれが、私にとってどれほどの重みを持つ職業であったとしても、だ。
かように一年前の私はスケジュール上の仕事をひとつひとつつぶして、空き時間にはつねに二三週間後のことに心を砕くという、まったく休まらない生活をしていた。それと比べれば今は、ゆったりと余裕のある生活をしている。そのことがある意味で私から危機感を取り去り、仕事そのものの質を落としているような気もする。そのくせ今だって忙しいという感覚を持っているのだ。これは結局、主観的な「忙しさ」を口実にした怠慢ではないか? 要は「忙しさ」の構成要素−−仕事だけでなく生活全般を含めた中味の組み合わせ−−が変わったのであって、私はいまだにその変化を飼い慣らしていないのかもしれない。そう考えると、長崎に来て半年以上たちながら、いまだにここでの生活というものをつかみかねているようなフシがあるのだ。
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