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フィジカル信仰とブランド信仰:自然科学の霊力について

(June 27/2005)



 写真を撮ることは大好きだった。大学に入った頃から、エチオピアに行くまでのあいだ、だいたい5年間は写真を撮ることばかり考えていたといってよい。もちろんデジタルカメラなど影も形も見えなかった時代のことだから、使っていたカメラもみな、いまから見れば古めかしいマニュアル・フォーカスの一眼レフばかりだった。最初に使ったのは祖父の遺品だったニコンEM。これに50ミリと135ミリという、いかにも町のカメラ屋が初心者に勧めそうなレンズの組み合わせを使っていた。

 その後、アルバイトして貯めたお金でオリンパスOM -4を買い(これは白鳥の写真を撮りに行った先で三脚ごと倒して壊した)、OM-4Tiを買い(これはエチオピアで仕事をした後で、金に困って売り払った)、おなじくオリンパスのOM-1を買った(これはいまでも使っている)。

 いまではフィルム・カメラは大事にしまっておいて、日常はデジタルカメラを持ち歩いている。このリコー製コンパクト・デジカメを買ったのは昨年の8月だったが、これを持って初めて外を出歩いた日のことを、私はよく覚えている。その日私は、逗子の、自宅から歩いて5分ほどのところにある中国人整体師のところに出かけたのだ。整体の先生は満州から来た人で、年に数ヶ月逗子で開店し、その他の日々は春陽の自宅で暮らすという一風変わった人だった。そして、日頃暇をもてあましている彼は、客が来るとマッサージに従事するより、はるかに長い時間をおしゃべりに費やすという「悪癖」を持っていた。

 私の買ったばかりのデジカメに目をとめた彼は、その日、まず30分あまりを「どこのメーカーのデジカメを買うべきか」という話題に費やした。彼は新聞の折り込み広告を示しながらこう言った。

「フィルムカメラはね、ニコン、オリンパス、リコーですよ。中国ではね、ニコンを持っていれば、みんなが、おーっ、ニコンですねー、って言ってくれますね。」 

そして私のリコーデジカメを一瞥して一言、

「デジカメだったらソニーですよ。」 

 中国では非ソニーのデジカメを持っていても、衆人の耳目を集めることはできないのである。整体の先生もその辺はちゃんと分かっていらっしゃる。つまり中国ではブランドを所有することこそが大事なのだと。中国人のブランド信仰はすごいと聞いたことはあるが、たしかに本物の中国人からそれを聞かされると説得力がある。

 ここで私などは思うのだ。たとえば鍼灸術や漢方などは、それぞれが体系として精緻化されていて、それはかなりの程度フィジカルなものとして確立されている。近代医療とはまったく異なる発想に基づきながら、その効用はいまでは、近代医学の用語で説明されてようとしているのに、そうしたものに「中国四千年の歴史」といったようなブランド的魔力を感じてしまうのは何故なのか、と。フィジカル信仰とブランド信仰は、その由来も歴史的過程も異なるものでありながら、その両者は不可分のものでもある。さきほどのカメラの例で言えば、ニコンのカメラは安定した機能を持っている、というのと、ニコンのカメラを持っているってのはすごい、というのとでは、大きな隔たりがある。それなのに、どういうわけか「ニコンのカメラをいいカメラだ」というフィジカル面と、「カメラはニコンでなきゃいけない」というブランド面が、ない交ぜになってしまっている。

 べつにどちらかに統一せよ、といっているわけではない。本当に気になるのは、いったいどうやってフィジカル信仰とブランド信仰が結びついているのか、そのあたりの機序(メカニズム)のほうだ。

 ところで、彼の整体治療だが、私の身体のどこを触っても、かならず不具合の在処とその悪影響について指摘するという、じつにフィジカルなものだった。私の場合には、頸椎の3番目だか4番目だかに古い歪みがあって、それが目の疲労や肩凝りを誘発しているという指摘が重要だった。彼の指摘は、理論的というほどのものではないが、原因と結果を単線で結びつけて説明するだけに、即物的で、余計にリアルだった。目の痛みも肩凝りも、私にとっては20年来の悩みである。なるほど頸椎か。

 マッサージや整体に気楽に足を運ぶようになって、かれこれ5年くらい経つだろうか。だが初めて整体に通ったのは大学生の時だった。横浜の南太田というところに住んでいる婆さんのところに、30分4千円という、いまからするとかなりの高額を払って、週に一回通っていたのが始まりだ。

 私は中学生の頃から肩凝りがひどいたちで、調子の善し悪しの波はあったものの、ひどいときには精神まで冒されるほどの「凝り性」だった。南太田の婆さんは私の立ち姿を見るなり、「右肩が下がっている」と問題点を見抜き、背骨の歪みに原因を求めた。そして、その背骨の歪みを取り除くことを目標として治療ははじまった。

 治療はなかなかうまく行かず、ある時、週末だけ助っ人として来てくれる男性整体師の治療を受けるよう指示された。婆さんと、その初老の男性整体師は私の背骨の歪みについていろいろと議論したあげく、背骨のつながり方についてひとつずつチェックしていくことになった。婆さんは私の肩を押さえて、男性の指示どおりに右へ左へと私の上半身をひねる。男性は私の背骨の「継ぎ目」のしかるべき場所に指を当てながら、慎重に私の上半身をひねる。その作業を下から順番にすすめて行き、首まで達したとき、背骨の「歪み」は消えていた。

 そもそも私の「右肩下がり」は、それほど目立ったものではなかった。誰にだってそのくらいの歪みはあるだろう、という程度のものだ。それが、治療のあと、鏡の前に立ってみると見事に消えている。目立たない程度の歪みですら、それが無くなってみれば、自分のきりっとした立ち姿にほれぼれとする。いやあ、身体というのはつくづく「モノ」なのだと思い知らされた瞬間だった。

 そしてその後しばらくは、ほんとうに肩凝りから解放された。

 逗子に住んでいるときには、JR逗子駅近くのNという整体サロンによく通っていた。ここはヒデさん、ユミさんという夫婦がやっている店である。私は予約を入れていったり、仕事帰りにふらりと寄ったりと、足繁く通ったが、そのうち半分くらいはヒデさんに、そしてあとの半分はユミさんや非常勤(バイト)の整体師さんに揉んでもらった。面白いのは、同じ店でも整体師によって流儀というか、得意技というか、そういうのが千差万別で、いろんな攻め方をしてもらえたことだった。

 たとえば。一時期、柔道整体師の青年が私の担当としてついたことがあったけれど、彼は私の腰痛の最大の要因であった「尻の筋肉」を揉むのを常とした。尻にはいくつもの大きな筋がある。彼はその一つ一つを探り出し、力を込めて攻め立てる。硬直した尻の筋肉は果敢に抵抗し、私は悶絶の苦しみを味わう。やがて「揉み」がすすむと硬直がほぐれ、筋肉も彼の手業を受け入れるようになる。尻が硬くて手が入らない→やがて筋肉がゆるみ手が入る→そうして揉まれると気持ちいい、という流れは、「尻に手が入って気持ちいい」という、それだけを聞くといかにもヘンな話のように聞こえるが、もちろんここで私が書いているのは(普通の)マッサージである。

 そうえいば「筋を攻める女性整体師」というのもいたなあ。この人は二の腕の裏側とか、腿の内側とか、そういう「裏側の筋」をぐいぐいと押してのばしていくのが得意技だった。

 一度しか行ったことがないが、横浜中華街の足つぼマッサージも印象的だった。たまたま中華街に遊びに行って、見つけた店。施術をしてくれた女性は、マッサージ師というよりは「医師」という感じで、50分間にわたって私の足の裏のツボを刺激しながら、カルテに記入していった。

 近代合理主義は霊的なものを否定し、フィジカルなもので全てを説明しようとした、とは、「近代」という特殊な文化についてよく言われることであるし、私も授業ではこういう説明をする。だがそれは、「近代とは何か」という問いに対する一種の「初心者向けのガイド」である。近代、ことに20世紀に生まれた私たちにとって、「近代」は無色透明でユニヴァーサルな基層文化(なんとも古い言葉だが)であるし、フィジカル信仰は、もはや「信仰」や「崇拝」などというほどのこともない、空気のようなものですらある。キレやすい子どもは前頭葉の機能不全に陥っているのだ、といったような脳外科医の説明が、何の違和感もなく受け入れられるのはそのためである。

(そして「前頭葉が機能不全に陥るのはなぜか」「なんらかの物質が欠損しているのではないか」と問いが立てられ、その物質がアイデンティファイされた段階で、前頭葉の機能を活性化させるようなサプリメントを供給する、という対策が立てられるのだ。)

 その一方で、フィジカルなものに霊的な力を付与するようなブランド信仰もまた、非常に根強い。私が文化人類学の教師として呪的思考を好んで取り上げるのは、そうした、あまりに当たり前で、無色透明で、我々の反省的思考を無化させるような文化の力を前景化するためでもある。

 特定のツボを刺激することで身体を活性化させるマッサージに、英国式とか、タイ式とか、中国式とか、あるいは最近だとインド式といったブランディングがなされているのは、これは商売だから当たり前だ。記号表現としての「英国式」とか「癒し」、でなければ「リラクゼーション」が、身体の特定部位を刺激するだけでなく、ある種の精神的な治癒効果もあると認識されるのは、これはもうフェティシズムだと言い切ってしまってもいいのではないか? 



 なんだか。何を書いているのか分からなくなってきたので、この辺で、おしまい。かぶれ系の学生から、たくさん突っ込まれそうだな。