無病息災の報告
(Sep. 14/2005)
月日の重み、というものを感じることは、そうそうあるものではない。私たちはなんとなく日常を送っていて、時間そのものを感じることなく、ただ過去をふり返ることで時間の経過を事後的に知覚するに過ぎない。過去のある一点を設定して、それと現在(それすらも過ぎゆきつつあるわけだが)とを比較して、年月の経過による何らかの計量をするのであって、その計量によってすらも「重み」までをも感じることはあまりないだろう。
私はいま、これをエチオピア南部の地方都市アルバミンチにある「ベケレ・モッラ」というホテルの23号室で書いている。海外にコンピューターを持ち出して仕事をすること自体はすでにめずらしいことでも何でもないのに、やはり、ここでパワーブックを取り出して文章を綴る自分に驚かざるを得ない。ここはヨーロッパのどこかの地方都市ではなく、エチオピアの地方都市なのだから。ベケレ・モッラはある程度囲い込まれたホテルであって、エチオピア的現実からは多少なりとも隔絶されているとはいえ、いま私がこうしている部屋の外では、近所の少年が草刈りをし、それを自宅にいる家畜に食べさせるために束ねて頭に載せようとしていたりするのである。
今回は自分の着るものなどは最小限にして、それこそパンツやシャツの類はほとんど持たずに、できる限りの電子機器をエチオピアに持ち込んだ。パワーブックだけではない。キャノンのポータブルプリンターやiPod、ケータイ、ハードディスク、デジカメ、ビデオカメラなど、ひとまずこれだけあればオフィスが開けるというような装備だ。実際には、プリンターは大学にリポートを提出する際に一度使っただけだし(おまけに入国の際に課税されて4000円くらい払う羽目になった)、ケータイは電波が届かない。ハードディスクも一度も使わなかったし、iPodは途中でバッテリーが切れた。というようにエチオピアの南部地方にこうしたものを持ち込むのは荷物が増えるだけであまりメリットがなかったり、不自由があったりするのだが、まあ今回は期間も短いことだし実験的に持ち歩いてみようと思った次第だ。
もちろんこうしたことが可能になったのは、いろいろと技術的な面での変化があったからでもある。たとえば、ここアルバミンチではホテルの部屋に電圧が安定しないとはいえ、ちゃんとコンセントが備わっている。だがここからさらに南、私がバンナへの前線基地にしている町カイ・アファールとなると、電気すら存在しない。ところが私はカイ・アファールの「自宅」でパワーブックを開き、自分の「家族」にデジカメで撮った日本の写真を見せたり、ビデオ映像を見せたりできたのだ。これは明らかにラップトップコンピューターのバッテリーの「持ち」がよくなったことに由来している。以前だったらエチオピアの田舎で貴重なバッテリーを使ってビデオを観るなんて、思いもよらなかった。ほかにも日本で手に入る電子機器の電源部が、エチオピア標準の220Vに対応していたり、日本と違ってきわめて不安定な電圧の変化にも耐えられるようになっているのも大きい。以前はこの電圧の変化を吸収するために、スタビライザー=電圧安定装置を使うのが常識だった)。
今回のエチオピア出張(実際には「旅行」というのがふさわしい)では、バンナでiPodを使ったり、カイ・アファールでケータイを取り出して写真を撮ったりといったミスマッチなことをやってみようというのが、ひとつのコンセプトだった。べつにエチオピア人を驚かそうというのではない。ただ、自分が普段やっていることをここに持ち込んでみて、どんな感じがするのか知りたかっただけなのだ。実際にはいまこうしてアルバミンチで文章を書いていても、べつにミスマッチな感じはしない。ケータイで写真を撮ってカイ・アファールの家族に見せても、みんなが喜んでいるのを見て、こちらも喜んでいるだけである。最初はミスマッチな感じがしたかもしれないが、すぐに当たり前になってしまう。最初の「ミスマッチ感」すらも、本当はそんなものはなくて、ただ自分がその感じ=違和感を期待していただけなのかもしれないと、いまなら思う。
たいだいケータイ自体がエチオピアでは珍しいものではなくなっているのだ。4年ぶりにエチオピアに来てみて一番驚いたのが、首都アディスアベバでのケータイ普及だった。私の知人・友人、仕事上の連絡を必要とする人々、みんな「09-」からはじまるケータイを持っていた。ネットサーフィンとか、絵文字とか、あるいは写メールとか、そういうのはまったく無いのだが、それでもその普及は首都からじわじわと地方に広がっている。
街中にみられる公衆電話も新しいものになっていて、なんとテレフォンカードが使えるようになっている。しかもどれもちゃんと動いているのがすごい。
以前だと、公衆電話が壊れている、電話をしてもつながらない、自宅に電話がない、つながっても混線がひどいといったことが多くて、なかなか人と連絡が取れなかったものだ。それがいまではケータイにかければ本人が出てくれるし、用事も簡単に済ませられる。逆に私がケータイを持っていないので、みんながわたしのホテルにかけてきてオペレーターを忙しくさせるといった有様だ。日本の携帯電話キャリアでエチオピアでも使えるものを用意しているところはないので、いまのところは私自身がエチオピアでケータイを買うしかなさそうだ。
エチオピア人が電話をしているのを端で聞いているとものすごく面白い。なにせもともとおしゃべり好きな上に、彼らは挨拶が長い。「ご機嫌いかがですか」「元気ですよ、あなたはどう? 元気」「ええ、神様のおかげで。ご家族はみなさんお元気で」「ええ、おかげさまで。無病息災です。」「ああそうですか、お国はいかがですか」「こちらは平和そのものですよ。そちらは??」……といった具合に、実際に相手に会っていようが、電話だろうが、こうした挨拶が延々と続くのだ。彼らがケータイに支払っている電話料金の20%くらいはこうした挨拶に費やされているんじゃないかと思うほどだ。
ケータイ電話はいずれエチオピア全土で普及するだろうし、そうなった時に人々のコミュニケーションモードがどんなふうに変化するのか、これは知的好奇心を刺激する問題だ。エチオピアみたいな、内部に多様性を抱えた国で、交通手段も相変わらず未発達な状態で、遠くにいる人の無病息災を確認できる手段としての電話が、つねに持ち歩けるパーソナルな道具に移行した時に、どんなふうに人々が対人関係や距離感を制御するのか。こうした問題は社会学者や人類学者が取り組むべき課題だと思う。
ケータイの話がだいぶ長くなったが、こうした変化はしかし、かなりの程度、経済の問題である。エチオピアの経済は相変わらず世界的に見て底辺をさまよっているのだろうが、インフラ整備などは確実に進んでいるようだし、今回ほど物価の上昇を痛感したこともない。アディスアベバには新しいビルが次々と建ち、地方にもコンクリート製のホテルが新しく建てられている様子を見ると、この国の経済はそれなりに上向いていると考えた方がいいのだろうか、とも思う。
だが、経済的な変化はせいぜい数字で表せるような変化であって、冒頭に述べたような月日の重みといったようなことを感じさせるほどのものでもない。私の場合はエチオピアの知人たちを見るにつけ、今回、つくづく月日の重みを感じてしまったのだ。
なにせ、たくさんの人が死んでいた。たった数日の滞在で、私のノートは死亡者リストに数ページを費やすことになった。
カイ・アファールで食堂・飲み屋を経営していたアルマズは、4年前はかなり具合を悪くしていたが、数年前に亡くなった。その妹であるアザレシも死んでいた。私のエチオピアでの両親であるブズネとイジガイヨは元気だったが、孫がひとり死んでいた。バンナに行けば、ボリ村の最長老であるサーラ老とボルディンバ老が亡くなっていたし、昔よく遊んだウーカやその父グバもこの世を去っていた。友人ラーレの母で、私が個人的にアミノさんと呼んでいた女性(大学院の先輩である網野さんにそっくりだったのだ)も乳ガンとおぼしき病の末に死んでしまった。
私にとって重たい死の知らせという意味では、親友ダンニャ・ベラチオが世を去ったことが大きかったかもしれない。ダンニャが2年ほど前にすでに死亡しているという知らせは、ほんの数ヶ月前にエチオピア人の人類学者から知らされていたが(私はだから、この2年間、そのことをまったく知らずにいたのだ!)、実際に死んだ時の様子をカイ・アファールの人々から聞かされると、さまざまなことを考えざるを得ない。具体的にはエチオピアの医療事情の貧しさや、援助のしようの無さ、自分の無力さなどである。ダンニャはすでに6年前に具合を悪くしていて、私にはせいぜい生活費や医療費の援助として少額のお金を送るくらいしかできなかったが、それでもほんとうはもっといろんなことができたのではないか、とも思う。
そして、これこそが問題なのだが、私はダンニャがいったい何の病で死亡したのか、それを知らないのだ。
おそらくこれだろう、と思い至る病名はある。人々もそうだという。だが、エチオピアの辺境地帯の医療状況では、それをはっきりとテストできる人は限られているし、薬も手に入れがたい。結局、対症療法的に大量の薬が処方されるだけで、根本的な治療がなされないまま人々が死んでゆく。
だから、ある人が具合を悪くして、病院へ通いだし、自宅で伏せっている様子を見ていると、私には「ああ、この人も結局死んでしまうのだな」ということがだいたいわかるようになってしまった。ダンニャの死も、アルマズの死も、「アミノさん」の死も、ある程度予想されていたことではあったのだ。
多くの人が死んだ一方で、同じくらいたくさんの子どもが生まれていた、という事実もある。4年前にテレビ番組を作った時、主人公に仕立てたオルゴの母サルパは妊娠していた。私が去った後に生まれたその子には私と同じ「ケン」という名前が与えられた。結果的に私は名付け親となったので、彼のことを「モッグ」と呼ばねばならない。4歳のケン君が遠くから私に「モッグ! 元気!?」なんて声をかけたりするんで、まるで自分が父親になったかのような気分になっちゃうのだ。
私の弟分のブスコも結婚して、子どもができていた。彼の長男もまた「ケン」である。まだ2歳なので私を見ても誰だかぜんぜんわからないのだが、いずれこの子も私を「モッグ」と呼ぶだろう。この子は私の「モッグ」であり、「甥」でもあるのだ。
彼らはボリ村での二人目、三人目のケンである。もう一人はコツァという男の息子で、すでに12歳になっている。父親も美男だが、ケン君もかなりの美男子で、こちらはもう立派な少年だから私と会話ができる。自分と同じ名前を持つ人間と会話をするというのは、なんだかおかしい。なにがおかしいのかうまく説明できないのだけれど、なんかおかしいのだ。おまけにコツァの家ではあちこちで「ケン! ケン!」と声がかかる。その度に私は振り向いて返事をするのだが、彼らが呼んでいるのはケン少年のほうなのである。ややこしいったらない。
ついでにいえば、私のバンナ名ラロンベと同じ成人名をもつ男もたくさんいるので、「おい、ラロンベ!」と呼ばれると、同時に3人くらいふり返ったりするからおかしい。
それにしても、だ。ボリ村にせよ、カイ・アファールにせよ、子供が生まれ、老人や病人が世を去るのをみながら、同時に、子どもたちがどんどん育っていって大人になっていくのを見るのは、うれしいやら切ないやらである。すでに子どものいるブスコなど、最初に会った時には私の胸くらいしか背丈のないガキんちょだったのだ。ほかにも「賢い少年」といった感じだったストゥータが行政区の区長になってしまったとか、カイ・アファールでの「妹」にあたるイダナコが今度できるボリ小学校の校長になってしまうとか、まあいろいろある。書き出したらキリがない。
こういういろんな「良きこと」--たとえば無病息災--は、エチオピアではまあだいたい「神様のおかげ」である。4年間消息を絶っていた私がひょっこり現れたことも、みんな神様のおかげだといっている。キリスト教徒にとっての神にせよ、あるいはバンナにとっての神バルジョにせよ、人々の生き死にを決めるのは彼らであるから、いつなんどき人が病に伏せっても、あるいは死んでしまっても、それは仕方のないこととして受け止めざるを得ないのかもしれない。
だからこそ、彼らの挨拶は長いのだろうか。彼らにとっての「元気ですよ、あなたはどう? 元気」「ええ、神様のおかげで。ご家族はみなさんお元気で」といったやり取りが延々と続くのは、私が感じる以上に重たいものなのかもしれない。そして今回、4年ぶりに姿を現した私は、どこへ行っても、会話の半分以上を挨拶と無病息災の報告に費やしていたのだ。
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