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就職予備校化する大学

(Oct.9/2005)



今回は、こんにちの大学と大学生に対するぼやきをひたすら書きつづる。結果、「大学生一般」に対する悪口めいたことをたくさん書くことになるが、これを読んでいる大学生たちには、それが特定の学生にたいする「ぼやき」ではなくて、あくまでも「大学生一般」という抽象的な生き物に対する愚痴なのだということを知っておいてもらいたい。私がふだん個別に出会っている学生たちは、みんないい子たちだからね。

まずは、ちょっとした個人的思い出から。

1980 年代の中頃、ミュージック雑誌にその広告を必ず見ることができた「青山レコーディングスクール」という学校が東京にあった。作曲や演奏の実技を学んだり、録音やミキシングといったスタジオワークの実践的な訓練をしてくれるコースをそなえた専門学校だ。広告にはさまざまな機材(当時のことだからほとんどアナログ機材で、しかも高価なものばかり)が並んだ「学習風景」が載っていて、しかも、音楽業界随一の就職率を誇っている旨が高らかにうたわれていたものだ。

そんなことを何でいちいち覚えているかというと、私自身が高校を中退した後、ここに入学するつもりでパンフレットや入学願書まで取り寄せていたからだ。いまとなっては行かないで良かったと思う。なにせ、その後ほどなくして青山レコーディングスクールは倒産してしまったのだから。

学校の倒産。これは近年になってにわかに注目を浴びてきた問題で、とくに地方の大学や短大が経営破綻するというニュースには、私なども近頃はあまり驚かなくなってきた。経営が危ないらしいと噂される大学はいくつもあって、そのなかで定員割れが続いたものから順番に倒産していく。あとは会社更生法のような手続きを経て、どこかの法人が買い取ってくれるのを待ち、そして名前を変え、カリキュラムを変えて再出発する。それでもうまくいかないケースが多い。

それなりに知名度の高い大学にはそうした問題は起こらない。たとえば青山学院大学が定員割れをおこす可能性は限りなく低い。ただし「今のところは」、という但し書きがつく。

なにせ2年後は2007年。受験生のだれもが、選り好みさえしなければ100%大学に進学できる年がやってくるのだから。そのあとにやってくるものについては、まだよく分からない。なにせよ、大学の二極化(安定したハイレベル大学と、経営基盤が弱体化した底辺大学に別れていくこと。偏差値にも如実に反映する)は続くと見ていいだろう。

ついでにいえば、二極化は今後数年の日本のキーワードとなる。ビールの消費だってそうなってる(価格が250円近いプレミアム・ビールと、100円台の発泡酒その他、だ)。

大学生にとって、大学に通う意味は昔も今もそんなに変わっていない。学歴を得るための必要悪、就職を切り抜けるための通り道、ぼんやりと遊んで暮らすためのモラトリアム。そう、大学は通わなきゃならない場所なのだ。受験する時には「なんとか入れてください」とお願いモードでやってくるのに、入学したとたんに「あーあ、うぜえなあ、ダイガク」になってしまう場所なのである。この転換がすごい。

タテマエはともかく、本気で学問しようなんて思って大学に入門する学生なんてほとんどいやしない。面倒くさいながらも通わなきゃならないなら、じゃあ役に立ちそうなことを教えてもらおうじゃないの、ということで近年はその傾向がますます強まっている。

たとえば数年前からの薬学部の人気だ。これはよく「世の中の景気が悪くて就職難だから、高学歴と実務能力が身に付くところに進学したい」というのが動機だと言われるものの、実際はそれは違うんじゃないかというのが私の見解である。「就職を見据えて薬学部」というのはタテマエで、ほんとうは「どうせ通わなきゃいけないなら資格取れる方がいいじゃん」なんだろう。(もちろん薬剤師になりたいと本気で考えている人の夢を毀損するつもりはありませんよ。)

こういうことをぐだぐだ考えるようになったのは、最近になってひしひしと感じる大学の「実学志向」のゆえである。ちょっとまえに、とある大学での学生アンケートなるものを見たのだが、カリキュラムに対する学生の要望というのは、ハンパでなく実学志向なのであって、それはもう「仕事になることを教えてくれるんじゃなければ大学としての価値ナイ」ってくらいの勢いなのだ。

その傾向を強く感じるにつれて、いまや大学人となった私は強い危機感を覚える。自分が実学を教えていないからではない。大学というところが就職予備校であることがもはや隠すことでも何でもなくなってしまった現実と、そのことに開き直ってしまった大学と、そして、そうとまで言い切ることができる大学の「顧客」としての学生に対しての危機感だ。

そりゃ、私たちの頃だって、「ついでに取得できる資格」はそれなりに魅力的だったから、学芸員とか教職課程とかの単位を取ろうという学生はいた(私は途中で脱落したが)。しかし、そうやって資格を取った人間のうち、ほんとうに学芸員や教員になった人間なんてあまりいないはずだ。当時はバブルの最後の時期だったから、経済系の学部に通っている学生たちの間には宅建(宅地建物取引主任者)の資格熱みたいなものがあったようだが、はたしてその資格を振りかざして不動産会社に入った人間はどれだけいるだろうか。

就職にたいする面倒見の良さは、もはや大学サバイバルの必須要件らしい。金沢工業大学などはそういった面倒見の良さが評判を呼び、もはやブランドを確立したとまで言われている。うちの大学でも内定者数やらなにやらの数字がしょっちゅう報告されているし、インターンシップだのなんだのと、すでに3年生から就職のためのあれこれにかなりの時間を割くシステムになっているようだ。(「ようだ」というのは、私がその仕組みほとんど知らないからだ。) 大学イコール就職予備校であることを隠すどころか、前面に出し、それが集客力アップの王道となっているのだ。なるほど。

こんなことを書いたら、「なにをいまさら」と言われるだろう。だが、これは私にとってはかなり驚きの事態である。なにせ、文系で育ってきた私にとって、大学でやることは大学でやること、仕事は仕事、実務は就職してから身につけるものでしょ、という感覚がどうしてもぬぐいきれないからである。

それに大学生だった時には、卒業して会社に入るとか、公務員になるとかいった現実的なことをまったく考えていなかった私である。7年前から大学で授業を持つようになって、「就活」を理由に厚かましくも公欠扱いという「配慮」を求めてくる学生に面してはじめて、その現実を知ったくらいだ。

いろいろ書いたが、まあとにかく、どんな大学も就職のために存在している。それが現実だ。そのためにさまざまな資格取得の便宜を図ってやらないと、お客はやってこない。だから基礎学問としての語学や一般教養は切り捨てられる傾向にあるのだろう。これがとても嘆かわしい。

私自身は学生時代、パンキョーや語学を楽しんでいた。そこに知の悦びがあったからだ。そんなもの大学にきたいするのは、未来永劫無理なのだろうか。「実践的」で「実用的」な科目ばかりを集めたカリキュラムを作り、本も読まず、映画も観ず、ただ「うぜー、うぜー」とぼやきながら大学に通い続け、黙々と単位取得に励み、あわよくば資格を取っておこうと考える学生に迎合する大学の末路や如何に。

こういう流れを見ながら、私自身はもう覚悟を決めつつある。「実学は教えない」である。たとえば人類学的フィールドワークを、ある種のマーケティングや社会調査という「実践」に応用できるものとして教えることもできるだろう。でも、やらない。そんなものは、何をしたいのかが決まってからやればいいのだ。そんなことも分からずに実践だ実用だと言われても困るのだ。

それだったら、まともな作文ができるように、ひたすら文章指導をしていたほうがずっとやりがいがある。相変わらずレスポンス・ペーパーに「疑問に思う」(Talk18をご覧あれ)を連発する学生たちをみるにつけ、つくづくそう思う。

大学はもっと嫌われていいし、もっと人を選ぶべきだ。入学時点で学生が持っているモティベーションや知識の量は、これからどんどん下がっていくだろう。だからこそ、鍛えがいがある、といえば楽観的すぎるだろうか。手取り足取り、至れり尽くせりのカリキュラムで学生の「ニーズに応える」よりは、もっといろんなものを押しつけてやったらいい。なにせ、われわれ大学人は入試でもって、一度は「選ぶ立場」に立っているのだ。