学生による授業評価(付録つき)(Oct.28/2005)
教師という職業についていると、年に数回は「授業についての悪夢」を見ることになる。少なくともわたしの場合はそうだ。はじめて人前に立って教える仕事をはじめたのが二十歳のときだから、もうかれこれ17年。いまだにこの手の夢を見る。
この類の悪夢はだいたい同じストーリーだ。場面や舞台が異なってはいても、状況はまずまちがいなく「授業崩壊」。以前だったら舞台は塾だった。中学生・高校生が授業を聞かない、騒ぐ、教師に暴言を吐くという序章に続いて、教師であるわたしが怒鳴り散らすというストーリーである。いまではそれが大学に舞台を移している。長崎大を舞台にした悪夢はまだない。悪夢の舞台として一番多かったのは(はっきりいうぞ!)青学の大教室だ。
長崎に来てもう一年経つというのに、いまだに青学のことを書くのはどうかと自分でも思うが、やはりあそこは、教えた人数といい(4年半でのべ4000人くらいだろうか)、多種多様な経験をしたことといい、大学教師としての私のゆりかごだったといってよい。「見どころのある学生はどの教室にも3〜5%存在する」という私なりの法則を発見したのも青学だった。学部によって学生の質に雲泥の差があるという事実を突きつけられたのも青学だった。「ユニヴァーシティ」というだけあって、いろんなことを勉強する学生がいて、そういういろんな学生との交流を楽しめたのも青学だった。そのうえ、カリキュラムの変遷に振り回されたり、事務と対立したり、学生とトラぶったり、例のドキュン掲示板で吊し上げされたり、そういうあらゆることを、私は青学で味わったのだ。
だから、青学を舞台にした悪夢を見るのは当たり前だ。
授業の悪夢について書いたのは、最近ある本を読んだからだ。ピーター・サックスというペンネームの人物が書いた『恐るべきお子様大学生:崩壊するアメリカの大学』(後藤将之訳、草思社)。著者はアメリカのどこかのカレッジでジャーナリズムと文章執筆を教える現役教師で、かつてはバリバリの新聞記者だったという人だ。本の帯にはこんな言葉が踊る。
「アメリカの大学生はよく勉強している」の大ウソ。甘やかせば授業にならない。きびしくすれば学生による授業評価でクビになる! 現役カレッジ教師によるショッキングなレポート。
この本。私が手にしたのはつい一週間ほど前のことだが、日本語訳が出版されたのはなんと5年前の西暦2000年だ。2000年といえば私が玉川と青学で授業を持ち始めた年だから、そのときにいち早くこれを読んでいたら、私の教師生活ももうすこし穏やかなものになっていたかもしれない。
関東で6つ、長崎で3つ、神戸で1つ。これが私の大学教師歴だ。数えてみたら、ついに両手の指と同じ数だけの大学で授業をし、報酬を得てきたのである。それ以外にも市民講座などで講師を務めているが、こうした社会人教育と放送大学をのぞけば、教える対象はだいたい18歳から23歳くらいの若者たちだ。大学で教鞭を執り始めた頃は私も30歳だったから、学生たちとはせいぜい"a decade"くらいの違いしかなかった。それがいまでは、そろそろ"two decades"になろうとしている。すくなくとも来年入学してくる学生のほとんどは18歳で、私はといえば来年の6月には38歳になるから、これはほんとにまずいことである。
なにせ、授業中の冗談が通じなくなってきた。たとえば先日、神戸の大学で映画「ブッシュマン」を全編観たときのこと。上映終了後に私はいくつかの簡単なコメントを付したのだが、そのときに「これって80年代初頭だから、音楽もみんなディスコなんだよね」といったのが、学生たちにはまるで通じなかった。ディスコ。という音楽ジャンルについての共感がまるで得られなかったのも無理はないのかもしれない。なにせ目の前で授業を聞いているのは、80年代半ば以降に生まれた人々なのだ。
とはいっても、「ディスコ」はここ数年のミュージック・シーンでどしどし取り上げられているし、そういうサブカル教養みたいなものがあっても良さそうなものである。そこにまったく引っかかってもらえなかったのが、なんとなく悲しかった。
学生とのジェネレーション・ギャップは避けられないことだし、ギャップの幅はこれからどんどん広がっていくのだ。そして、学生たちとのあいだに感じてしまう距離感が単なる年齢差に起因するものではなく、もっと根深い問題をはらんでいるかもしれないということを、先の本によって考えさせられてしまったのである。
『恐るべきお子様大学生』の著者は、現代の大学生を「匙で餌を与えてもらわなければ食事もできないヒナ鳥」にたとえている。おそらくその指摘は、多くの日本の大学生にも当てはまる。
授業をするのに教科書を使わない私は、ほとんどすべての講義でハンドアウト(レジュメ)を配布している。A4版で2枚から4枚のハンドアウトを作成し、これを縮小してB4片面(もしくは両面)印刷したものを毎回のように配布しているのだ。このやり方はもう5年ちかく続いている。ハンドアウトを使うのは、教科書に支配されずに自分なりの講義手順を組み立てたいからであるが、もちろん学生にとってもこういうものがあったほうが授業の流れがつかめてよろしかろうという配慮からでもある。
レジュメの出来不出来、というのは回によって異なる。だが、だいたいにおいて私は、自分のつくったレジュメを見て、その過剰なまでの親切心と丁寧さにほれぼれとしてしまう。きちんと章立てがされている上に、小項目もわかりやすく箇条書きしてある。最低限必要な図版も載せてある。これを見ながら話を聞いても分からないようじゃダメだよな、とある意味では学生を試すようなものになっている。
私がレジュメにたくす親切心はそれだけじゃない。私は、ある種の情報を意図的にレジュメに書かないことで、学生たちにペンを動かすチャンスを与えたりしている。授業中わたしが、ある程度までレジュメの文面を読み上げた後、「……で、ここから先はそこには書いてませんけれど……」とかいうのは、そういう部分である。
そのとき、私は同時に学生を試しているのだ。「……で、ここから先はそこには書いてませんけれど……」と私が口にしたときに、彼らがいったいどういう行動をとるか。「おっ、これは聞き漏らせないな」と判断してとっさに行動に出る学生は半分もいるだろうか。あとの半分はわりと無反応だったりする。そういうときの私も「匙で餌をやる母鳥」だ。ご丁寧に「……っていうことですから、プリントに付け足しておいてください。もう一回だけいいますよ」なんて誘導したりして。
私の場合はこういうのがそれほど苦にならないからいいのだが、でも本音を言えば、テキストも配布物もなしで、ひたすら黒板をつかって蕩々と語る授業というのをやってみたい。学生はノートと鉛筆だけを用意していればいい。私の口から出る言葉は、それぞれの学生の受け取りかた次第でさまざまなふうにノートに写し取られる。そのへんの緊迫感を楽しんでみたいわけだ。
サバンナに生きる草食獣は、赤子を産み落とすとそのままほったらかしだったりするそうだ。赤子は数分以内に自力で立ち上がらないと肉食獣にねらわれる。そんな生命力を授業中の学生に期待しているのだが……そんなことをしたら「面倒見の悪い不親切な先生」といわれてしまうだろう。一部の学生にとっては「テストにでることだけをまとめて教えてくれるのがよい先生」だったりするのだから。
近頃では講義中の資料提示にスライドショー(Keynote)を使うことが多い。スライドショーと紙媒体のレジュメの組み合わせというのが、近頃の定番のスタイルなのだが、時にはスライド資料が多すぎて、そうした情報を紙媒体に盛り込めないことがある。これは私にとってはむしろ、自分らしいノリを獲得できるやり方でもある。
スライドショーがメインの時は、レジュメはほとんど添え物になる。授業そのものの「コンセプト」と「キーワード」、そして「落としどころ」さえしっかり押さえておけば、あとはスライドから読み取れることを自由に話せばいい。授業をやる側としてはひじょうにやりやすいし、楽しい。
だが、学生にとってはどうなのだろう。スライドから私が説き起こしていることを逐一メモしている学生はほとんどいない。スライドだけが続くあいだ、彼らはまるでテレビでも見ているように画面に食い入っている。
さて、学生たちにとっては、よい授業、よい先生とはどんなものなのだろうか。気になるところではある。
数年前からだが、日本全国の大学で「学生による授業評価」旋風が吹き荒れている。いいかえれば、顧客としての学生様に、授業サービスを評価していただこうというものだ。いまのところこれは授業改善のための資料として使うというのが建前になっていて、この結果が教員の給与に直接響くというようなことはないらしい。
学生に裁かれるというのは、教員にとってはかなりしんどいことではある。だが、なんらかのフィードバックがなければ自分のやっていることを客観的に把握できないのであれば、授業評価もやむを得ないのかもしれない。私の基本的立場は「学生による授業評価」に賛成、である。だが留保がつく。そしてその留保のせいで、いまのところ全く乗り気でない。今のままのやり方だったら、「学生による授業評価」は百害あって一利なしである。
まず、通常「学生による授業評価」はマークシート式のアンケート調査なのだが(この辺の安直さが気に入らない)、基本的に無記名であり、記入する学生には自分の書いた内容に対する責任が問われない。これはある意味で、アンケートを要請する大学側が「あなたからの評価を知りたいのですが、それほど真剣にはうけとめませんからね」といっているようなものである。授業評価は絶対に記名式であるべきだ。
もちろん教員にたいしては、誰がどんなことを書いたのかは知らせなくていい。どこの大学にも授業評価を取り仕切る部門があるのだから、そこで遮断すればいいだけのことである。そのうえで、アンケートでの記入内容と、その学生の成績や出席状況などの相関関係を分析しなければならない。
たとえば、遅刻も欠席も多くて成績もいまひとつな学生が、特定教員に対してボロクソなことを書いていたら、それはやはり信用ならない回答となる。逆に、あるクラスの全員が先生を褒めちぎっていたとしても、そのクラスの学生が全員「AA」かなんかを取っていたら、そこには「授業が生ぬるかった」という可能性が浮上する。
『恐るべきお子様大学生』には、自分の終身雇用を確保するために学生からの評価を高めなければならず、そのために遅刻も欠席も大目に見て、評点を底上げし、無礼な学生にもにこやかに対応する、という涙ぐましい努力が記されている。そんなの、しかし、大学生に対してすることか? さいわい私は、文化人類学という授業のパフォーマンスに向いている学問をやっているからよかったが、これがたとえば「中世ラテン語文学」だったらどうだっただろう。
学生による授業評価にはまだほかにも問題がある。アンケートでいったい何を聞くか、だ。たとえば、質問の中に「この科目は役に立ちますか」とか「自分の将来のためになると思いますか」なんて質問が加えられていたら、おそらくほとんどの文系科目はよくて「ふつう」、わるくて「役に立たない」という回答を得てしまうだろう。質問の設定自体が、学問を「役に立つか・立たないか」という基準で判別することを暗に要請することになるし、そうなると「誰にとって役に立つのか」「どんな点から有益(無益)なのか」といった細部がばっさり切り落とされることになる。
経費削減と「改革」のために不要教員を切り捨てたい大学が、こんなアンケート調査を始めたら、それはもはや「ユニヴァーシティやめます」宣言に等しい。ユニヴァーシティとはさまざまに細分化された専門をもつ研究者=教師が一体となってひとつの統合(ユニヴァース)を形成する場なのではなかったか?
就職してみて1年あまり。働いてみると大学というところが、それほど「ユニヴァーシティ」ではないということに気づいてしまうのである。もちろん政府の政策が悪い、大学自体が悪い、教員が悪い、そして知的好奇心を失ってしまった学生が悪い。教育そのものが「役に立つか・立たないか」で判断されてしまうような世相が悪い。そしてそうした世相に抵抗できない大学人がもっとも悪い。
付録
以下のリストは、2001年の春に東京の複数の大学(中堅以上の偏差値をもつ大学)で実施した教養テストです。だいたい300人くらいを相手に実施しましたが、ほとんど白紙で帰ってきました。ちなみに対象学生のほとんどは文系学生でした。

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