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アイデンティティとしての「長崎」

(Dec.2/2005)



Talkのタイトルをどのタイミングで決定するか。これは重大な問題である。たいだいにおいて私はタイトルのネーミングが下手だから、そのタイミングはなおさら大事である。

Talkのタイトル決定はだいたい、

(1)仮のタイトルを決めて文章を書き始める、

(2)実際に文章を書きながら、その流れに応じて仮タイトルをいじる、

(3)アップロードする時に最終的なタイトルを決める、

という手順を踏むが、なかにはタイトルも中味も全部はじめから決まっているという一直線なものもある。(最近だとTalk113の「就職予備校化する大学」などがそうだ。)

今回のタイトルは私の博士論文のもじりである。博士論文のタイトルは、内容がはっきり決まるよりもずっと前に決めなければならず、私はさんざん考えた末に「アイデンティティとしての「周辺」:エチオピア南部における近代の物語」というのに落ち着かせた。今回はそれをもじって「アイデンティティとしての「長崎」である。これ以降、タイトルには一切手を加えない。

11月はじめにオープンしたばかりの長崎歴史文化博物館に行ってきた。長崎に来てからほとんど観光らしい観光をせず、原爆資料館にすら足を運んでいない私だが、この新しい博物館は、長崎で活動する文化人類学者としては一度は見ておかねばならない場所である。

博物館はいま、とてもホットなトピックである。研究者の世界(とりわけ歴史学と人類学)では博物館は、異文化を好き勝手に表象してきた「権力の舞台装置」として取り上げられるようになってきた。その一方で、カビくさくて埃の積もった博物館のイメージを払拭するような、「地域再生の要」あるいは「教育施設」としての博物館の可能性を探る人々もたくさんいる。

長崎歴史文化博物館は、長崎県と長崎市が共同で「長崎の歴史と文化」をまとめて紹介しようとしているのだから、「地域再生の要」としての位置づけを与えられているのは明らかだ。なにせ長崎が長崎を表象しようとしているのだ。だが私のような人間が観に行けば、当然そこは「長崎を表象する舞台装置」である。

この博物館の展示を見れば一目瞭然、ここに取り上げられているのはすべて江戸時代止まり、である。要するに出島があって、シーボルトがいて、蘭学が栄え、そして開国に至る歴史。これが長崎にとっての「歴史文化」であり、これこそが「長崎アイデンティティを支えるもの」として特化されているのだ。

辺境であるがゆえの最先端、という長崎の文化地政学的な布置が如実に表れているとでもいおうか。それは今日の、国家的にはあまり重要性を持たない県としての長崎県のあり方の裏返しとして、強烈な文化アイデンティティの根幹を作り出す。そしてそのことを、公的な「記憶装置」としての博物館新設によって裏書きする結果になっている。

出島にせよ、シーボルトにせよ、いずれも教科書レベルの日本史の教科書に長崎が登場する、数少ない項目である。定番日本史の確立(そこには旧文部省や歴史学者の意向が大きく関わっているのだろう)と、「異文化交流都市」長崎のアイデンティティの提示という問題とが、どのように関わっているのかは、まだよく分からない。

だが、一般的な話として、長崎において観光的な価値を持つもの、あるいは外部へのアピールはなにをおいても「歴史」として「原爆」。歴史の面では横浜や神戸と似たような性質のものを売りに出し、原爆に関してはこれを「平和学習」につなげて広島と連携する。異質な二つの要素がくっついているのが長崎の観光的価値の特徴だと言える。

長崎に来てもうすでに一年が経過したが、一切の価値判断を抜きにして「辺境」であるということを、日増しに感じるようになっている。地理的には沖縄をの除けば西の果て。九州の中でも、そのちょこんとした位置取りがいかにも「辺境」で、鉄道を使っても、高速道路を使っても、福岡・佐賀以外の他県に行くのに遠回りをする必要がある。(たとえば熊本県はすぐ近くのように見えるが、実際は佐賀県と福岡県を経由しないと辿り着けない)。

これは江戸時代でも同じだったと思う。長崎は当時の江戸幕府管轄下では、西の最果てであったし、だからこそ海外との通商の窓口たりえたのだ。地理的に外部との境界としてはうってつけであったし(ヨーロッパ船は東南アジアを経由して日本に来たから)、出島などはまさに「日本であり、日本でない」という境界領域としての「あいまい性」をきちんと演じていた。

この辺の「あいまい領域の怪しさ」が、ある意味で長崎の魅力だったのだろう。いや、その「魅力」を再発見し、表象の糧としたのはむしろ戦後の観光産業だったといえる。カステラを異文化交流の産物として特権化し、目端の利いた山師的な外国人(グラバーという人物)の邸宅を自文化の一部として取り込み、外国人居留地一帯の「落ち着いたたたずまい」を長崎的な雰囲気としてアピールする。

その一方で中国カルチャーの要素が濃い「長崎くんち」と「精霊流し」、それに「ランタン・フェスティバル」と、かなり派手で作り物っぽい祭が多くて、その点も目を引く。長崎市内の精霊流しなど、私が受けた一番の印象は、その「ガラの悪さ」だった。

「伝統」の作りものっぽさという点では、長崎の文化研究はもっとちゃんと行われなければならない。もちろん「文化研究」といっても、くだんの博物館が強烈に主張するようなイメージを強化するためのものであってはならない。長崎の文化研究は、文化生産研究であるべきだ。

もちろんこのようなことを言ったからといって、一般的な長崎の印象(異国情緒があって、坂が多くて、さだまさしが県民を代表するといった印象)を破壊しようとしているとは考えないで欲しい。むしろ日本という国家の形成過程で、長崎という辺境がどのように位置づけられてきたのかが、こうした文化生産をみることで明らかになるような気がするのだ。たとえば、原爆。

被爆都市、というのは長崎と広島がマスメディアに登場する際の紋切り型の接頭辞だが、長崎が「被爆都市」になってしまった理由のひとつは、明らかにここが地政学的に辺境として国家に組み込まれたことと関係している。

私がいま仕事をしているキャンパスの、ほど近い場所上空500メートルでファットマンが爆発したのは、まさにこのキャンパスが三菱の兵器工場(三菱長崎兵器製作所大橋工場)だったからだ。そしてまわりを見渡せば、いまでも長崎には三菱が溢れている。近頃ではめっきり評判を落とした三菱の乗用車も多いし、聞いたところでは、長崎の若い女性の間では「三菱社員をゲットした(三菱社員と結婚する)」というのは一種「玉の輿」に近いニュアンスを持つらしい。

つい最近、私のゼミにおける共同研究で判明したことだが、長崎近郊でもっとも早く「団地」というのを建設したのは、やはり三菱だった。団地というのは、よそから流れてきた労働者を一時的あるいは長期的に収容しておく居住区画のことだから、三菱はまさに、長崎の経済と人口動態に劇的な影響力を持っていたということになるだろう。

そして何より、その三菱が長崎で重点的に展開していた事業が、兵器の生産、戦艦の建造、そして石炭の採掘なのである。国家を主体とした全面戦争への物資の供給。これが前世紀なかばの長崎に期待された役割であり、それは近代長崎の辺境的特性を決定的なものにしたと思われるのだ。

長崎歴史文化博物館にどれだけのことを期待して良いのか、正直分からない。だが、博物館が「これが歴史だ」「これが文化だ」といって示すものは、現在の長崎を語っているとは、あまり思えない。長崎アイデンティティを批判的に観る、批判的に展示するというのは、ここを観光の目玉としたい経営者にとってはもっとも避けたいことであるというのは分かる。だが、この博物館は、「長崎」の「歴史」と「文化」の博物館なのだ。長崎市のごく一部地域の、ごく一部の時代のオーソライズされたものだけで、長崎アイデンティティを補強してしまうのはあまりにもったいない。

……と、ここまで書いてタイトルを「長崎文化を作る」とか「長崎の文化レシピ」とかにしたくなってきた。