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緊急掲載! レポートの作法を身につけよ

(Feb. 4/2006)



 すでにレポートを採点している段階で、しかもその採点も終盤にさしかかっているというのに「緊急掲載」もないものだが、急遽思い立って書くことにした。すべて採点し終えてしまうと書きたい情熱も失せてしまいかねないので、あと5人分の採点を残して、いまこそ書くのだ。

 その前にひとつ、注意書きが必要だろう。いま採点しているのは某大学の某クラスのレポートである。だから基本的に、彼らのレポートに対する印象に基づいて書くわけだが、以下に書くような問題点は多くの大学生に当てはまると思う。これはもう8年間も大学で教えてきて、数千人分のレポートを採点してきた経験からはっきり言えることばかりだ。

 問題点は、概ね3つのグループに分けることができる。つまり、

(1) 文章力の問題:分かり易く書いていない

(2) 論点の問題:何を考えて書いたのかよく分からない

(3) 引用の問題:自分の言葉で語っていない

 この3つだ。

 ちなみに、私のレポートの採点はA,B+、B,B−、C,Dの5段階で、Aは90点〜100点に相当し、以下10点刻みとなる。Cはもうぎりぎり合格(ほとんど参加賞に近い)、Dが不合格である。採点はBを基準とし、そこから上乗せがあればB+〜Aへと上昇し、マイナス部分があれば下がっていく仕組みだ。過去にCやDを出したことが何度もあるが、これはたとえば「用紙のサイズが間違っていた」とか、「課題とまったく違うことを書いている」とか、あるいは「盗作・剽窃」などの場合であった。



(1) 文章力の問題

 大学生の文章力、あるいは筆力は、ピンからキリまでである。(手元の辞典によれば「ピン」が最上位、「キリ」が最下位だそうだ。) 

 「ピン」のほうは、それはもうスッキリと分かり易く、何を言いたいのかがストレートに伝わってくるような文章を書く学生。あまり上手すぎると「丸写し」を疑わないでもないが、でも後述するような「自分の言葉」で語っていることがはっきりしていばAを取れる確率が高い。

 これが「キリ」となると、もう手がつけられない。かつて、手書きレポートがまだ残っていた時代には、字の汚さを目くらましにして文章力の下手さを隠しているようなものがあったのだが、すべてのレポートがワープロ印刷となると、もうその手は通用しない。

 留学生たちの日本語作文力は、やはり全体としては劣るのだが、なかには読んでいるだけでは外国人だと気付かせないくらいの人もいる。もちろん日本人の「キリ」作文とは比べものにならないくらい良い。こういう「できる」留学生の文章は、文法的にきちんとしているのはもちろんなのだが、あとで述べる「論旨の展開」がきちんとしているとか、段落がまとまっているとか、そういう"技"の部分によるところが大きい。

 簡単にいってしまえば、文章力のない学生には、知的活動のための「テクネー」がないということになる。こういうのは時間をかけた自己研鑽に期待するしかない。

 ところで、いま「論点」とか「論旨」とか、そういう高度なことを書いたのだが、実際にはもっと低次元の問題を抱えている学生がたくさんいる。だいたい半数の学生がこの問題を抱えていると考えていい。それは、「段落分けができない」という問題だ。

 かつて、某大学の某学部の学生には、A4のレポート用紙をびっしり文字で埋めて、しかもそれらが一段落に押し込められているというのが多かった。具体例が手元に残っていないのでお見せできないが、こういうのを読むのがどれほど苦痛であるかは、やってみないと分からないと思う。(→ここをクリックしてください。このTalk119の「まるまる一段落バージョン」を作ってみました。)

 段落分けができていても、たとえば20行にわたってパラグラフ(段落)が続くというのも、やはり苦痛だ。いや、そのパラグラフが論理的に必要な長さを持っていて、その長さが「説得力ある長さ」であれば良い。しかし大学生による「長い一段落」は、よく読めば3つか4つのアイデアを含んでいることが多いのである。こういうパラグラフは「がらくた箱」のようなもので、中に何が入っているのかは箱をひっくり返さないといけない。読む方としては、そんな一手間があるだけで苦痛なのだ。

 ひとつのパラグラフにひとつのアイデア、というのは小論文の鉄則である。論文やレポートは神話とはちがう発想に基づいて書かれるのだから、中上健二の書く叙事詩のような長い段落は必要ない。

 その他の注意点としては……段落の頭は一マス空けるとか(これがないと、どこから新しい段落がはじまるのか区別がつかない)、「だ・である」調で書くべし、とか。



(2) 論点の問題

 論点が明確であることは、レポートでも論文でも絶対に必要なことだ。何を書こうとしているのか、どういう視点から考えようとしているのか。そういうことがはっきりしないレポートは、これまた読み手に苦痛をもたらす。

 これはまた、文章力と不可分の問題である。内容を決めるのは論点の的確さや資料の中味なのだが、それらを適切に提示するのは文章の力によるからである。したがって、「内容さえよければ文章力は必要ない」という考えは間違っている。たとえば、資料的な面で不足していても、文章がきちんとしていればそれは「流れがしっかりしている」ということになるし、逆にどんなにたくさん調べてきても、それが適切な文章になっていなければクズとなる。

 要するに、文章は流れなのだ。

 レポートを評価する3つのポイントというのがある。このようなものだ。

(1) 一貫したテーマ

(2) 明快なストーリー

(3) 理解したうえで自分の言葉で語っていること

 この3つを満たしたレポートが良い評価を得る。

 「一貫したテーマ」とは要するに、ひとつの短いレポートの中にあれこれ詰め込むな、焦点を絞ってそれを貫けということである。アフリカにおける HIV/AIDSの問題を取り上げます、と冒頭で述べて、ついでに貧困問題を並列して論じる、というようなレポートがあったとしよう。これはこれで大枠では構わないのだが、ただひたすらエイズの悲惨さを数字で並べ立てて、その背景にありそうな貧困問題を書き連ねたうえで、「したがってエイズの問題は貧困の問題であるあるのだ。我々はまずこの現実を知ることから始めなければならない」と締めくくられては、はて、いったい何を論じようとしていたのかな? となってしまうわけだ。

 これは「明快なストーリー」という評価ポイントと大きく関わる。先のレポートだったら、それこそ「エイズの流行と貧困問題にはどのような関係があるのか考える」と冒頭で書いてもらったら、どれだけ分かり易いだろう。そうやって明快なテーマ設定をしたうえで、「エイズと貧困には関係がある」という事実が分かったなら、その因果関係を探ればよい。もし「関係がない」となれば、ほかの条件について考察を進めればよい。

 調べたこと(ネタ)を、あれもこれもと突っ込んだ上に教訓を垂れたり(「我々は〜するべきだ」)、宣言をしてみたり「(〜しようと思う)」、安直な問題提起をしてみたり(「国際社会はもっと〜に目を向けなければならない」)するのは、テーマの一貫性という面からも、明快なストーリーという面からもいただけない。

 この「論点」に関しては、もうひとつ気になることがある。それは「比較」の仕方である。

 短いレポートで2つ以上の事例を挙げて比較をするのはなかなか難しいことだ。多くの学生はたとえば、こういうことを書く。まずは「エイズ問題に興味を持ったので、アフリカとタイの事例を比較してみました」と冒頭で述べる。ここまではいい。そのあと、まずは「アフリカのエイズの現状」(これがアフリカのどこかではなく、アフリカ全体であることに注意)を記述し、ついで「タイのエイズの現状」を記述する。そのうえで、「〜の点については似ている」「逆に〜に関しては違う」と書いておしまい。これを比較と呼べるだろうか。

 似ている、似ていないを見分けるというのはもちろん、比較の第一歩である。だから類似点と相違点を指摘するのは必要なことなのだ。しかし多くの学生はそこで立ち止まる。似ている点が重要だと気付いたら、その「類似の条件」を探るべきだし、相違が大きいのなら「相違の条件」を探るべきである。

 そうしたきちんとした比較ができるかどうかもまた、明快なテーマ設定(つまり論点の提示)ができているかどうかにかかってくるわけだ。いわば「目の付けどころ」が問われるわけで、この能力は一朝一夕では身に付かないだろう。基礎的な学力が問われる場面だ。



(3) 引用の問題

 卒業論文とは違って、学期末レポートは引用についてはそれほどうるさくない。私も、文中にいちいち参照文献と参照ページを書かせるようなことはしていないかわりに、末尾に参照文献一覧を書かせることで妥協している。だが(だからこそ)、提出されたレポートを読む際にはこの参照・引用には気を遣うし、学生たちにはつねに「自分の言葉で語れ」と言っているのだ。

 自分の言葉で語っている部分と、他人の言葉を引用している部分では明らかにテイストが異なる。

 過去には書籍の一部を丸写ししたり、一部改変してそのまま提出するというものがあった。これは執筆過程の資料集めの作業としてならば認められるが、それを、さも自分の言葉であるかのように使うのは盗作にあたる。

 大学教師の間でもっとも神経を使わされているのは、学生たちが駆使するインターネットからのコピー&ペーストだろう。

 私の周りにいる学生たちの会話に耳を澄ませていると、どうやら彼らにとって「コピペ」はレポート執筆の基本となっているらしい。彼らがコピペしたものをそのまま「自分の文章」として提出しているかどうかは分からないが、もしそんなことをしているのなら、どやしつけなければならない。

 インターネット上から情報を引っ張ってくるのは、ある意味で技術のいることであるし、またネット上にしか存在しない情報も数多くある。私自身がネット資料で苦労するのは、その情報の質を確認する過程である。たとえばWikipediaは豊富な基礎情報を提供するサイトだが、そこに掲載されている情報には誤りの多いことが広く知られている。この資料の質の検討(これをテキスト・クリティークとか資料批判とか呼ぶ)を経たうえで利用しなければならないのに、学生たちは「コピペに使える」と思ったら、そのままコピペ&加工してしまう。これは教師がきっちりと指導しなければならない部分だと思う。

 このコピペ&加工は、広く「編集」として捉えることができる。編集といえば、私たちがものを考えたり、書いたりするのはそもそも「編集」なのだから、それ自体は決して「いけないこと」ではない。むしろいまの大学生はその作業に習熟しているフシがあるので、レポートを読む側としては、その加工の痕跡を見抜く眼力が求められる時代になっているとも言える。

 かつてこんなことがあった。「ボディ族の色彩認識について調べた」という某大学の女子学生のレポートを読んでいた時のこと。ボディの色彩認識といえば、私の研究上のボスである福井勝義先生の研究しかないから、当然福井先生の本や論文が参考文献欄に載っている。ところが、その文献欄がすこしおかしい。どうも本の「出版年」が間違っているのだ。おかしいと思ってネット検索してみると、なんと、私が採点しているレポートは、ネット上に公開されている「誰か」の卒業論文だったのだ! 文献欄の「年」の間違いがそのままだったのが決め手となった。(読んでもいないものを参照したというウソが発覚したということである。)

 それから私は小一時間かけて、その「ネット上の卒論」と彼女のレポートを見比べて詳細なチェックを入れた。ネット上の卒論は彼女の手によって細かな修正が加えられ、それによってあたかも彼女自身がその文章を書いたかのような細工が施されていた。それは見事な細工だった。主語を入れ替える、文末表現を書き換える、引用部分を削除するなどのあらゆる手段を使って偽装されていたのである。

 もちろん評価は「D」であり、本人には見破られていることをはっきり告げた。彼女はそれからは授業に姿を見せなかった。そりゃそうだろう、会わせる顔などあるはずもない。

 そんなこともあって、個人的にはインターネットの安易な利用には反感を持っている。なぜ「反感」かといえば、その安直さが気に入らないからなのだが、とくに学生たちが参照してきたサイトが子供向けのものだったり、簡単な用語解説的なものだったりすると、腹が立ってくる。

 ネット資料は限られた条件で利用されるべきである、というのが私の考えであり、これは数年前から変わっていない。その条件とは、「ネットからしか得られない資料を集めるには、インターネットを積極的に利用すべし」というもの。

 たとえば、911直後からのネット上での人々のやり取りをモニターして、その資料で博士論文を書いたという外国人に会ったことがある。こういうのはネットそのものが研究対象だから、当然のようにネットサーフィン自体が研究活動となる。

 あるいは、政府や機関が発表するプレスリリースや統計資料の類も、ネット上からの方が容易に、そして豊富に手に入る。情報を発信しているウェブ上の場所も安定しているから、資料そのものに対する安心感もある。

 あるいはまた、紙媒体には乗らない最新情報などもネット検索によって抱負に見つかる。エイズについてのレポートで、たとえば参考文献が90年代の半ばのものであったりすると、これは資料としては古すぎる。だが国連や国際機関が発表する最新情報はネット上で見つかるので、これを利用しない手はない。もしエイズやトリインフルエンザについてのレポートで、それが数年前の文献だけに依拠して書かれていたら片手オチとなるだろう。ネット資料の積極的活用を促したい。



 こんなことを書いていて、ふと、「前にも同じことを書いた気がする」というデジャブが襲ってきた。気になって調べてみると、やはり。某大学の某クラスで、レポート返却時に学生たちに配ったコメントがハードディスクに残っていた。ついでだからこれも掲載しちゃおう。 → 参考:「レポートのマナー」(以前に某大学で配ったコメントです。)