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教えて欲しい。携帯電話をいじくっている人は、あれで一体なにをやっているのか。

(Oct.25/2003)



個人的な好みからいうと、携帯電話というものがあまり好きではない。便利さは認めるし、情報端末としての将来性も買っている。でも好きになれない。いや、嫌いだ。誰もが携帯電話を持っている。私だって使っている。でも愛情がわかない。

「愛情の持てなさ」について考えてみると、すぐに2つのファクターが思い浮かぶ。第一に電話機自体の問題、第二に使っている人の問題。両方とも、ひとしく重大な問題を抱えている。両方ともが解決されないと、一般的存在としての携帯電話は、いつまでたっても私に愛してもらえないのだ。

第一の問題は、サービス会社やメーカーの努力にかかっていると思う。私が携帯電話を使い出したのは遅く、4年か5年前のことである。その頃は葉山の丘の上の住宅地に住んでいたが、駅からのバスは夜10時半にはなくなってしまうし、帰宅が遅い私はいつも同居人に迎えに来てもらっていた。その帰宅時刻連絡に便利だと思って導入に踏み切ったのであるが、今では、私がこれを「電話機」として使用するのは週にせいぜい1〜2回、メール(スカイメールというヤツ)だって滅多に使わない。毎日もっぱら目覚まし時計として利用している。そして今のところ、携帯電話を使っての写真やムービーにも関心がないので(あんな低機能なものをどうして使えるのか!)、うちはとっても少数派のTu-Kaを利用している。Tu-Kaは音質もいいし、「電話機」としてはなかなか良い。「はなせりゃええやん、電話やし」っていうのは開き直りともとれるが、私にすれば、ほんとにそうなんである(それに比べて電波範囲だけがとりえだったD社携帯のどうしようもない音質は、いまは少しは改善されたのだろうか?) いま使っているのは3年ほど前の機種だが、コンパクトで、デザインもわりと良い。

以上が、携帯電話を愛せない理由のうち、「ケータイ」そのものが抱える問題である。だが、もっと深刻で、しかも改善される見込みのないのは第二の問題である。これはもう救いようがない。こういう人たちがいるから、携帯電話そのものも醜く見えてしまうのだ。(ここからはいつものような愚痴・罵詈雑言がはじまるので、読みたくない人は飛ばしてください)。

まず身近なところから言うと、授業中に電話の呼び出し音を鳴らすヤツがいる。今では2回の授業に1回くらいだが、これだって半年以上にわたる躾の成果であって、年度のはじめはいつも幼稚園の先生になった気分になる。授業中には携帯電話の電源を切れ、といつもいっているのだが、まあこんな簡単な日本語もわからずに(あるいは電源ボタンの位置を知らないのか)、授業中にピロピロと間抜けなファンファーレを響かすヤツが相変わらずいる。もちろん着メロでガンガン責め立ててくるのもいる(着信を知らせる音声を、調生のずれた音階でがなり立てるあれも、じつに醜い代物である。あれが個性を示すというのなら、それはクズの個性である)。

マナーモードにしていればいいのだと解釈されたのか(どういう解釈だよ)、机の上で電話機をぶるぶる踊らせるヤツもいる。しかもそう言う奴らの何割かは、申し訳ないと思う前に、まずディスプレーで着信内容を確認するのだ。そんなにシャバの世界が恋しいか、おい?

のりのりで講義をしているときにこれをやられると、確実にテンションの数十パーセントが失われる。自分がやられてみろよ。それとも、電話が「割ってはいること」になにも感じないのが今節の感覚なのか? 

ついでにいうと、授業中に携帯電話を手にして教室を出入りするヤツが毎回からなずいる。たいていは後ろから3列目くらいまでのところに座っている学生である。電話連絡が忙しいなら授業なんかにでなければいいいのに。授業を聞きたければ電話を切る、「電波」したければでない。どうしてこういう割り切りができないか。こういうのをみていると、つくづくバカなんじゃないかと思う。

教室の外に出てみれば、片手で電話機をいじりながらすりすりと歩くヤツがいる。後ろからだと、あてどなくさまよう怪しい人にしか見えない。こういうのをいじりながら歩くのは、テレビを見ながら車を運転するのと同じでしょ? 電波に心を抜かれたゾンビたち。

でもなにより腹が立つのは、やはり電車やバスのなかでの通話だろう。これはもうどうしようもない。私がみるところ、電車内で平気で通話できる人間には、何パターンかある。(1)若い女、(2)若い男(どちらも学生かそれに近い年代)、(3)主婦っぽい女性(子育て中の時期の人と、すこしお年を召されたお金のありそうな感じの人)、(4)地位のありそうな中年男性(中小企業の社長タイプ)、(5)会社員全般。これはあくまでも私の偏見のまじった観察眼によるもので、他の人の目にはちがうパターンが見えるだろう。(あるいは、電車内で通話している人なんか全く気にしていないか)。

電車内で電話を取るときに、ひとまず手のひらを口元に宛てて、会話が漏れないように「気配り」している人がいるが、あれは隠しながら見せるという、ストリップ劇場の見せ方に近いものがある。何気なく(どこが、何気なく、だ)聞かせることで、わたくし忙しい人間なんですよ、仕事がんばってるんですよ、人から頼りにされているんですよって言いふらしているのである。こうして人は、電車劇場の中央舞台で、自らのプライバシーを、チラリズムをもって見せるのである。

電車内での通話は、他者の姿が見えていない、あるいは自分がその空間のなかでしかるべき位置を占めているのだという自覚がない幼稚な人間のすることだ。そう言う人間は、幼稚な人間がつどう園(つまり幼稚園)に通って、社会というもののあり方をもう一度学ぶべきだろう。

電車内通話のタチの悪さは、会話がまわりの人びと(しかも見知らぬ人びと)に筒抜けになってしまう点にある。そもそも通話内容はプライベートな事柄に関することだから、まわりの人びとには「あ、聞いちゃいけないな」という遠慮が働く。(もちろん、こういう遠慮が働かない人間が電車内通話を実行するわけだ)。その遠慮はしかし、容赦なく耳に飛び込んでくる会話情報によっていとも簡単に無力化される。近頃思うようになったのは、電車内通話が迷惑な理由は、単に音がうるさい、雑音を発生させているという点にあるのではなく、こういった無用の遠慮を他人から引き出す一方で、なおかつそれに対して詫びもねぎらいもないという点にあるのではないか、ということだ。たとえば、人と話しているときに電話がかかってきたとしよう。受話器を取るときに言いませんか、「ちょっと失礼」と。電話のなかで、それを周りの人に言った通話人の例を、私は知らない。

そうした「漏れ聞こえてくる」会話が、なにか面白い内容を含んでいれば、まだいいのかも知れない。だが、ヤツらが電話で話すことなんて、やれ、いま電車に乗ったところですだの、20分ほど遅れますだの、いまどこだよだの、そんなのばっかりだ。約束が守れない人間や、ヒマでヒマでしょうがない人間にとっては、携帯は福音ツールなのである。

こういった周囲への配慮の無さは、空間内での自分自身のポジショニングの失敗によるものだ。これと同じことを、私は、ウォークマンでヘッドフォンからしゃかしゃか音を鳴らすヤツらが出現しはじめたころから感じていた。車内での音楽鑑賞もまた非常にたちが悪い。耳がふさがれているので、外部の人間たちの状況をつかむための情報が封鎖されている。しかもその音が漏れているという状況も把握されない。そして当の本人は、自分がまき散らした雑音が、辺りの空気を汚染していることにも気づかずに立ち去ってゆくのである。

こうしたことを感じているのは私だけではないだろう。周囲に広がる汚染をくい止めるべく、人びとはバリアを張り巡らしたのだ。ある者は一切の感覚を遮断することで、ある者は対抗的ウォークマンで耳をふさぐことで、ある者は携帯電話で車内通話を続けることで。かくいう私もApple社のiPodを持ち歩き、必要に応じて車内で聴くが、それは車内での身の安全を確保するためでもある。つまり耳栓として音源を持ち歩いているわけだ。

携帯電話は常につながることに意義があるらしい。そして携帯電話を手放せない人にとっては、つながっていないことは、極度の不安状態をもたらすのだろう。たとえそれが電車内であっても、授業中であっても、デートの最中であっても。だが連絡し合うことが自己目的化してしまった世界では、携帯電話は、その存在自体が目的であり結果であるという訳のわからない状況に陥っている。なにがコミュニケーション・ツールだ。そんなにつながっていたいのか? 電車を待っている数分間、信号待ちの数秒間、いったいどれだけの人びとがムダにつながっているだろう。あちこちで携帯のディスプレーを眺めいっている人たち、あなたたちはそれをいじくって、一体なにをやっているのですか? 携帯番号をコレクションすることがコミュニケーションなんですか? 「おはよう」だの「元気」だのといったWords and Phrasesを頻繁にやりとりすることが、つながっていることの証なんですか?