17年が過ぎ去って
(Mar. 13/2006)
私が大学生だったのは1988年から1992年までのきっちり4年間である。60年安保の世代が教授で、70年安保の世代が助教授で、そしてニューアカデミズムの影響を受けた人たちが講師だったり大学院生だったりしたタイミングだ。
通っていたのが成城大学という、ノンポリの極みのようなところだったせいもあってか、私たちの周りで政治が話題に上ることはほとんどなかったと思う。そのころはバブルの真っ最中で、日本中の大学生が政治から距離を置いていた。いや、完全に脱色していたというべきだろうか。
それでもまだ、当時の大学生は政治に関心を持たざるを得なかった。冷戦崩壊と天安門事件という、とんでもなく大きな出来事が立て続けに起き、そのあとに湾岸戦争が続いたからだ。イージス艦という言葉をきいたのも、多国籍軍という耳慣れない軍隊の存在を知ったのも、このときだった。
冷戦のただ中に育った私にとって、それは天変地異に等しい激変だった。その時は素朴な男の子だったから、これで世界が平和になると安堵していたものだ。
もちろんベルリンの壁が破壊されるのも、チャウシェスク大統領死亡のニュースも、まずはテレビで知った。思えば一国家の激変がテレビカメラの前で展開されるというのは、私にとってはフィリピン革命(マルコス政権の崩壊とアキノ政権の樹立)以来だったかもしれない。そうだ。アキノ元大統領の夫ベニグノが暗殺されたのもカメラの前だった。
2年間一人暮らしをしている間も、私は新聞を購読していた。(一人暮らしをしている大学生で、新聞を購読している者が、いま何人いるだろう? もちろん日本全国を見渡しての話だ)。 ゴルバチョフが登場し、確実に世界が変わりつつある様子を記録に留めようと、私は熱心に新聞のスクラップブックを作っていた。(ここで同じ問いを発しよう。いまの大学生は新聞のスクラップなど取るだろうか、と)。
スクラップブックは十数冊にも育った。
いま思えばかなり先見の明があったといえるだろうが、1980年代の末は、いまでいう環境問題に絡んだニュースや記事が増えつつあった頃で、その関係の新聞記事もずいぶんとスクラップしていたのだ。あのころ、朝日新聞のカメラマンが沖縄のサンゴを傷つけて撮影し、それを「心ない人々による自然破壊」として報道したスキャンダルがあったが、あの写真も、夕刊一面に掲載されていたものをばっちり切り抜いていたものだ。
話をもどそう。
NHK が深夜に放送しているアーカイブ放送で、当時のルーマニア革命を描いた特集を再放送していた。もちろん1990年当時の私も観ていた番組で、15年経ってあらためて観れば、懐かしいやら、驚きやらで胸がいっぱいになる。その後のルーマニアの苦境を知っているだけになおさらだ。
いまやルーマニアはエイズ孤児の国である。なんとHIVの全感染者の8割を子供が占めるという。そしてマンホール生活をする子どもたち。
はたしてあの時の熱狂は何だったのか?
1989 年のチャウシェスク政権崩壊の経過を写した映像は、いま観ても新鮮だ。チャウシェスクが逃げ出しても大統領派の抵抗は続き、市街地では常に銃声がしている。当時の私には分からなかったが、いまの私ならよく分かる。抵抗する側も、それを攻め落とす側も、使っているのは同じAK系列の銃だ。
そんな銃撃戦を多くの人々が見守っている。その様子はなんとも無防備で、もし背景に銃声が響いていなかったら、ただの野次馬にしか見えない。銃声にたいする感覚の麻痺、だろうか。銃弾に対して何も感じないくらいの熱狂だったのだろうか。もちろん私には分からない。
そして、すでに頻繁に使われている「テロリスト」という言葉。一般市民のなかから、チャウシェスクに肩入れする「テロリスト」たちが検挙され、群衆の罵声を浴びている。同じことはロシアでもチェコスロヴァキアでも、どこでも起きていただろう。
いまだってイラクかどこかで、同じことが起きている。これはオーギーなのか、それとも法則なのか。あるいはオーギーの法則なのか。
結局のところ、同じことをまた言うしかないのだ。この15年間でいったい何が変わったというのか。そして、あの時の熱狂は何だったのか。ふと考えてみれば、いまの日本人にとってはルーマニアは「恋のマイアヒ」の国なのである。
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