我ググる、故に我あり
(May 08/2006)
ここ数年さんざん苦労してきた「コピペ・レポート問題」。この問題をしつこく蒸し返したい。
つい先日は、大学院生までがネットコピペでレポートを提出するという事態が発覚し(発見したのは私だ)、愕然としている。ちなみに、この学生については呼び出してヤキを入れ、不合格にした。ナメるにもほどがあるってんだ。
このヤキ入れ(と、あえて不穏当な言葉を使う)については、偶然その場面に出くわした同僚が「恐ろしくて声もかけられなかった。私だったら足腰立たなくなるかも」と感想を漏らすほど、私は、完膚無きまでに叩きのめした。もちろん長崎大学は戸塚ヨットスクールではないので、腕力に訴えたわけでも、怒鳴り散らしたわけでもない。私がやったのは証拠を突きつけ、罪状を認めさせ、「君はわれわれ教員をバカにした」と宣告しただけだ。
これだけ言っても通じない者には、まったく通じないだろう。通じなかったら大学院にいる意味がない。
レポートや論文の最低限のマナーについては、Talk119に書いたとおりで、これといって変更はない。
ところで、「コピペ問題」は日本全国はおろか、全世界で問題になっているようだ。これはグーグルがもたらした「闇の部分」と言って良いだろう。
ヴァーチャル空間における電子情報の日々の蓄積と、検索技術の発達によって、コンピューターが目の前にあればたいていの情報には触れることが出来るようになった。だが、ウェブ上での情報の見極めと利用のノウハウ(これをインターネット・リテラシーとでも呼ぶのだろうか)を身につけている若者はあまりいないと言わざるを得ない。
はてなダイアリーに「大学のレポートのコピペ問題」というページがあり、ここからリンクをたどると、私がこれまで経験してきたことと同じ経験を、日本中の大学教員が味わっているということが分かる。ここには数多くのコメントも書き込まれているから是非見てほしい。
用心のためここにはリンクをつけないが、ネット上には「読書感想文をダウンロードするサイト」とか、「卒論・レポートを取引するサイト」が存在する。
ネットからのコピペを自分の文章として提出するのは、たとえ金銭が発生しなくても「パクリ」であり「盗作」である。だが、この「パクリ」や「盗作」という言葉を使うと、どうも問題が倫理道徳に偏ってしまう気がしてならない。
そのうえ「学問とはそもそも……」というような高説も、学生の多くが学歴だけをもとめて大学に通っている現状を考えれば、ほとんど意味のないものとなる。
いま私の浅知恵で考え至るのは、このようなことだ。つまり、問題の核心は、ひょっとすると自己のマッピングとかポジショニングというところにあるのかもしれない、ということである。
こう考えてみよう。デカルトは「我思う、ゆえに我あり」といったそうだ。ニュアンスがちょっと違うかもしれないが、これを「考えているからこそ自分が存在する」とか、「オレって何だ? ……って考えているオレは何だ? あ、そうか。いま考えているのはオレなんだ。オレはオレなんだ」という、再帰的に確認される主体の確認だとしておこう。(さあ、哲学系少年少女からのツッコミが来るぞ〜)。
このデカルト的命題を是とするか、否とするかは議論の分かれるところであろうが、すくなくとも、学問教育の場としての大学は、「考える主体」がいて、なおかつ「考える」ことで学問する主体が存在できるということを前提としている。
具体的な学びの過程では、適切な問題設定を行い、十分な資料を集めた上で仮説を立て検証するということを最低限の作法として身につける。言い換えれば、広範な問題系のなかに、自らの探求の位置を見いだし、さらに進むべき道筋を探るという、そのための技術を身につけなければならない。
その探求する主体こそが「大学で学ぶ者」なのであり、その意味において、学生だって「学者」なのだといえるのだ。
そのように考えると、ネットからのコピペでレポートをでっち上げる学生は、先ほどの「探求の位置を見いだす」ということを放棄しているし、「学者」であることを放棄している。
職業的研究者が発表する論文だけでなく、修士論文でも、あるいは卒業論文でも、求められるものは、月並みな言葉で言えばオリジナリティーだ。だが、そのオリジナリティ=独創性は、けっして脈絡を失っていてはならない。研究はかならずなんらかの脈絡の中に位置づけられ、関連づけられなければならないし、そのことは畢竟、探求する自らの位置づけ(つまりポジショニングであり、マッピングである)をきっちりやらなければならないということを意味するのだ。
サルヴァドール・ダリであれ、ジョン・ケージであれ、マイルス・デイヴィスであれ、クリエイティブであることは常に何らかの脈絡に位置づけられたし、そうした文脈への可能性が開かれていた。
※おっと。「ググる知性」はすかさずここで、「ダリ」とか、「ケージ」とか、そういうキーワードで検索かけちゃうんだろうな。ええ、ええ、どうぞ検索なさい。でも「ジョン」で検索しても「ジョン・ケージ」はなかなか出ませんよ(嘲笑)
与えられた課題に対して、その調査の足がかりとしてGoogleを利用するのは構わない。だが、そうした検索エンジンが示してくれる膨大なページの記述を横取りすることは、「我思う、故に我あり」を完全に無化し、レポート・論文を書き、提出する主体の存立基盤を消去してしまう。教師の立場からすればそれは「この学生は何も学んでいないし、なにも考えていない」ということと同じとなる。
ネットコピペを提出する学生が示してみせられるのは、すこしはコンピューターが使えるという事実と、検索キーワードを打ち込んでコピー&ペーストできるという能力だけである。それはあたかも、「我ググる、故に我あり」といっているかのようだ。
だが、勘違いしてほしくない。ググることが出来ることと情報収集能力はまったくの別物だし、そうして完成した作品が、あたかも自分のオリジナルであるかのように振る舞うのはむしろ、情報収集能力と編集能力の欠如を示しているに過ぎないということを理解してほしい。
結局、ネットコピペしか出来ない学生には、「学者」として大学に居続ける意味などカケラもないということになる。
こんな蛮行を、自分が受け持っている学生たちにしてもらっては困る、と大学教員の誰もが思っている。そのためには一年次で徹底的な作法のたたき込みをしなければならないのだが、残念ながらそのための試みは上手くいっているとは言いがたい。
私はついに、今年からゼミ形式の授業では、よほどの理由がない限りはインターネットからの引用をしないこと、そしてWikipediaは全面的に禁止することを通達せざるをえなくなった。Wikipediaからの引用を禁止する、などということをいちいち念押ししなければならないのはとても残念なことだ。
追記
ネットからのコピペで提出されるレポートのほとんどは、ちゃんと採点していれば、採点中に発覚すると考えてよいだろう。もし発覚しなければ、その学生がそれなりの技術を発揮したということになる。
だが、多くのコピペレポートは、盗作・剽窃にしてはひどく低レベルなものに留まっている。なぜ低レベルか。だいたい3つの理由が考えられる。
(1) 検索キーワードが貧弱
たとえば「日本近海におけるイルカと人間」という課題があったとしよう。多くの学生はGoogleの検索キーワード欄に「日本 イルカ 生態」と打ち込んで結果が出るのを待つ。だが、そこに「海獣」とか、「クジラ」とか、「捕鯨」とか、「漁業」とかいった関連キーワードを打ち込まないと情報収集の範囲は留まったままである。キーワード検索は、広範囲な興味関心と教養を兼ね備えた人間にこそ役に立つのであって、そうでない人間には有益ではないだろう。
(2) テキストクリティークができない
テキストクリティークは「資料批判」「とでも訳せる言葉だ。要するに、手に入れた資料がまともなものか、その質に関して留保が必要なものかどうか、そういう判断を下す「資料の吟味」である。こんな最低限のことが大学生には出来ない。
テキストクリティークのやり方は、説明し出すとキリがないのでここには書かない。だが、大学院生がWikipediaに頼るのが論外だ、というのはいうまでもない。もう一度いうが、私だってWikipediaを利用する。だが、そこから引っ張ってきたネタをそのまま使うかどうか。その辺がプロとアマの違いなのだ。
(3) 文章力の著しい欠如と、根本的な手抜き
どうしてこんなに、と思うほど文章の下手な学生が、およそ2〜3割いらっしゃる。これについてもすでにTalk119に書いたので、繰り返さない。
今回のTalkに書いたようなコピペ、そして昔からあった「引き写し」。まとめていえば、これはみな「手抜き」である。戸塚ヨットスクールだったら、ほんとに足腰たたないほど、叩きのめされてたことだろうな。
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