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己の言葉で語れ

(July 20/2006)



 最近のTalkは大学のコトばかり書いていて、自分でもちょっと「バランス悪いなあ、もっといろんなこと書かなきゃなあ」なんて思うのだが、日常のかなりが大学、とりわけ教育と大学運営なわけだから、まあ仕方ないと半ば諦め気味である。フリーだった頃にはまったく経験しなかったことばかりであるから、これはこれなりに意味があるんだろう。

 ということで、今回も教育についての雑感をネタにして書くことにする。このサイトの読者は(1)大学教育従事者、(2)学生、(3)元学生、(4)人類学関係者で全体のおよそ7割(推測)を占めるのだが、今回はとくに「(2)学生」たちに読んでほしい。とりわけ1年生から3年生に読んでもらいたい。だから今回のタイトルは命令形だ。

 フリーランス人類学者だったころには講義しかしていなかった。つまり一定人数のいる教室で、壇上から講師が語るというスタイルの授業である。そんな私が長崎大に赴任して、いきなりゼミ形式の授業を持つようになり、それがそろそろ2年になろうとしている。講義とゼミとはまったく違う、ということはあらかじめ分かっていたのに、やってみると本当にぜんぜん違うし、学生達の隠れた弱点もたくさん見えてきて興味深い。

 ゼミにはいろんな形式があるが、やはり文系ゼミの基本は文献講読だろう。割り当てられた文献を読んで、それをレジュメにまとめて発表するというスタイルだ。まあはっきりいって、大学1年生が作ってくるレジュメはぜんぜんダメだし、2年生や3年生が作ってくるものもまだまだ及第点を与えられるような代物ではない。

 レジュメの作り方を改善すればよいというものではない。文献を読む、筋道を見抜く、ポイントを抜き出す、それを書き出すというプロセスを学生達が分かっていないのは明らかだし、分かっていてもなかなか上手くできないのだ。

 そもそも「レジュメを作って発表する」というのを、「縮めること」と勘違いしているフシがある。先のプロセスでいうと、「文献を読む」のつぎに筋道を見抜くのではなく、「不要そうなところを捨てる」という過程が混じっていて、これこそが大事なのだと思い違いをしているらしいのだ。

 はっきり書いておこう。要らなさそうな部分をオミットすれば内容を短縮できるのではない。学問の訓練に必要なのは「短縮」ではなくて「濃縮」だ。

 魚をさばくのに喩えれば、こうなる。鱗を落として、皮を剥ぎ、背骨に沿って包丁を入れて3枚に降ろし、食べ甲斐のある身の部分だけを取り出すのが「魚さばき」である。だがレジュメを作るにはそれじゃ足りない。刺身を提供しながらも、それぞれの身がどこの部位で、そのあたりにはどんな骨が走っていたのかをきちんと示さなきゃならない。

 この「捨てた部分」はしかし、もとの文献においてはそれなりの位置を占めていたはずである。それをごっそり捨て、原文での位置づけもせずに発表するからか、学生たちはよく「ここ、よく分かんないんですけど」と断りを入れて、それをスルーしたりする。そのスルーした部分に対して他の学生から質問を受けたりすると、驚くなかれ、原文の該当する箇所をそのまま読み上げたりするのだ。

 「もとの文献には『・・・・・・・・』って書いてあります、以上」って感じだ。

 これって、「私はこの部分が分からないから捨てた」「だから理解するのを放棄した」「したがって原文を紹介するにとどめる」「この部分について二度と聞かないでくれ」と宣言しているようなものである。でもそれって、手抜きじゃないか?

 ゼミ形式の授業で痛感するのは、「己の言葉で語れる学生が少ない」ということである。文献の一部を読み上げ、「〜ということです」で済ますのは、要するにコピペと同じで、己の言葉は「ということです」だけだ。そんなの責任を持って報告したとは言えないだろ。

 たしかに、自分が発する言葉はすべからく「かつて誰かが発した言葉」である。私・増田研がここに書いている言葉だって、どこかで見聞きした語彙、表現、内容の組み合わせに過ぎない。だが、そうだからといって、コピペを見せるのが発表だとは誰も思わない。

 もちろんここで、パラフレーズとか、ブリコラージュとか、ディコンストラクションとか、アプロプリエーションとか、カタカナ用語を繰り出して論じても良い。もちろんそんなことはしないが(話がややこしくなるだけだ)、「ということです」発表が達成感のカケラももたらさないことは火を見るより明らかだ。

 要するに、言いたいことはこうだ。「その発表は本当に君がやっているのか?」。

 ここへきて、驚いたことはまだまだ沢山ある。たとえば、学年が下になるほど、学生は発表を手早く済ませるのに長けているという発見がある。20ページあまりの文献を、たったの5分で発表するのだ。すごいと思わないか? さばいた魚の骨と、そこにこびりついた血合いだけを見せられているようなものだ。

 こういう「手早い発表」には共通したパターンがある。



(1)導入がない

 その文献がどういった流れを汲んで、どのような意図で書かれたのかについての紹介がごっそり抜けている。たとえ文献に書かれていなくても、補足してくれなきゃ聞いているほうは何がなにやら分からないというのに。



(2)分かんないことをごっそり捨て去る、あるいは、分かんないまま報告する

 ごっそり捨て去ることについてはすでに書いたが、「分かんないまま報告する」ほうも、これまたかなりの驚きをもたらす。なにせ「〜と書いてあります」と言ったあとに、「でもよく分かりませんでした」と続けて終わっちゃうのだ。教師に質問しているわけでもない。ただ「分かんないのでこれまでにします」と一方的な終結宣言を投げつける。



(3)補足調査がまったくなされていない

 これは「手早い発表」だけに限らない。だいたいほとんどの学生が補足調査をしない。文献に未知の言葉が出てくるのは当たり前だ。それを調べずにやり過ごす。事例が出てきても、たとえばその周辺の地図や基本データを調べてレジュメに掲載するといった手間を惜しむ。



 ほかにもいろいろ書きたいことがある気がするのだが、この辺までにしておこう。

 口頭発表というものに対する私の常識は、「発表は制限時間内にまとめるのが大変、だから言いたいことを詰め込むと時間がオーバーしちゃう」である。ところが「手早い発表」をされると、時間が余るのだ。オマケに発表そのものがひじょうに素っ気ないので、余った時間を質疑応答に当てても質問のしようがない。質問が出ても今度は、当の発表者が手抜きをしているものだから、ぜんぜん答えられない。発表自体がせせこましくて、議論がぜんぜん広まらないし深まらない。

 ゼミのデフレスパイラルだ。 

 先日、2年生のゼミで3ヶ月間の調査報告をどうやってやろうか、と学生達に問いかけてみた。パワーポイントを使いたい人は? と聞いたら、全員が固まった。PC上のスライドショーを怖がっているのか、あるいは面倒くさいだけなのか。けっこう意外だった。

 私の授業は文化や社会についての事例研究をおこなわせることがほとんどである。そうなると、写真とか、図版とか、地図とか、あるいは論点の流れとか、そういうのを示すにはスライドショーを作るのが一番手っ取り早いと思うのだが、それを嫌がるのである。なんでだろ?

 卒論発表会などでも、パワーポイントを使っていながら、原稿を読み上げる学生がいたりする。私は自分のゼミ生には「原稿読み上げ厳禁」を徹底させようと思っている。スライドショーを使うのなら、「そら」でやるのが理想だ。言い損じや、発表中のフリーズ(コンピューターのではなくて、発表者の)を防ぐための要点メモくらいは持ち込んでいいだろうが、でもそういう要点メモって、ほとんどスライドに出てるんだろ? 

 己の言葉で語らずに、なにが学問だ。何が発表だ。「その発表は本当に君がやっているのか?」。