はたらくよろこび
(Aug. 16/2006)
私が生まれ育った家庭は、父が会社に出かけ母が家事を取り仕切るという典型的な昭和家族であった。父は朝早くに家を出て夜遅くに帰宅する。母は朝から掃除機をかけ、買い物をし、食事を作る。子供の仕事はせいぜい風呂を洗うだけ。なるほどこう書くと、いかにも美しく均整の取れた役割分担だ。
母は一時期、自宅で公文式の英語教室を開いていた。生徒は半径数キロ以内から通ってくる小中学生で、その中には私や弟の友人が多数含まれていた。
私がはじめてアルバイトをしたのもこの英語教室で、当時私は中学2年生だった。私が任されたのは「採点」である。私の厳格な採点はしばしば母とのあいだに諍いを生んだが、いま思えばこの体験がその後の「塾講師→大学教師」という教育業への布石だったのかという気もする。
ところで私は、これまで建設業と教育産業以外で仕事をしたことがない。たとえばレジ打ちとかウェイターといった接客業には就いたことがないのだ。唯一の例外は、10年くらい前に一時しのぎにやってみた郵便局のアルバイトだけである。
この「例外」は、しかし、とても知的好奇心をかき立てるものだった。その体験はほかのどのような職種にも増して「異文化体験」と呼びうるもので、私は毎日、まるでフィールドワークに出かけるような気持ちで郵便局に通った。
勉強以外に取り立ててやるべきこともなかった私が、ふとした思いつきで郵便局の短期バイトをはじめたのは、1996年の7月である。場所は自宅(屏風ヶ浦)から京急線で30分もかからない神奈川新町にある横浜の集配センターであった。
ここには深夜になると、神奈川県全域から集められた郵便物が届く。全国からの郵便物も届けられる。それらを分類するのが私たち「ゆうメイト」の役割だった。
・・・ゆうメイト。笑ってやってくれ。
バイト初日。私を含めて「この日が初めて」という3人は、まず局長のところに呼び出された。そこで耳にしたのが、この「ゆうメイト」である。断っておくが私は「ゆうメイト」になりたくてここに来たんじゃない。ただ仕事ができてお金がもらえればそれでいいだ。それを「ゆうメイト」だなんて。バドガールじゃあるまいし。
とにかく局長は我々を「ゆうメイトさん」と呼びたがった。そう呼ばれるたびに笑いをかみ殺すのに必死である。だって「ゆうメイト」だぜ。
我々初心者3名が局長様からいただいたアリガタイ訓辞はたったひとつ。「郵便物を盗むな」である。いまでもはっきり覚えているが、こういう話だった。
「君たちは学生だろ。だったら郵便物が目の前にあったら盗みたくなっちゃうだろうけど、絶対盗んじゃだめだよ」
皆さんはこの訓辞をどのように受け止めるだろうか。学生です。だから盗みをしたくなります。ですので、気をつけます。って答えられるだろうか? この瞬間、私が郵便局の文化的風土にさらなる興味を抱いたのは言うまでもない。学生=物盗り、っていう等式が成り立つ郵便局って、いったい何なんだ?
ここで夜間のアルバイトをしていた一ヶ月間、私はずっと横浜市内でやり取りされる郵便物だけを分類していた。郵便番号別に振り分けていく、あの仕事だ。運動神経と知覚能力と判断力が問われる仕事で、これはこれでスポーツ的な楽しみがあったが、一生やりたいかと聞かれたら答えは間違いなく「NO」だ。
いまでこそだいぶサービスが良くなったとはいえ、郵便局は長年にわたって私の天敵だった。窓口は半分くらいしか開いていない、開いていても長く待たされる。配達員はその日のノルマが終わればあとはヒマだから、駐車場でキャッチボールか何かをして時間をつぶす。大事な郵便物を無くされて、その行方すらもつかめなかったこともある。
当時の日本の郵便局と同じくらい接客のなっていなかった場所といえば、私の知っているのはエチオピアの国営銀行とアディスアベバ国際空港くらいだ。
そんな「エチオピア並み」の貧弱なサービスが如何なる文化風土によって育まれているのか。それを探るのが私の、バイトついでのミッションだった。
仕事自体はたいしてきつくもなく、休憩も沢山あって、どちらかといえば楽だったと思う。郵便物が少ない時は、勤務時間があけるまで休憩室で暇をつぶすことも多かった。したがって、どこかに楽しみを見いださないと働く歓びを得られない、そういう「労働モチベーション」を持ちあげるための工夫が必要だった。
私が見いだした「歓び」の一つは、郵便物の宛名を読むことである。われわれ「ゆうメイト」の仕事の大半は、郵便番号別に仕分けするだけだから、本来ならば宛名を読む必要はない。いや、むしろ宛名を読んだりするとプライバシーがどうのこうのいう問題にありかねないから、それは見て見ぬふりをするべしみたいなところがあった。
でも私は、しっかり読んでいたのだ。
いまでもはっきり覚えているのは、7月下旬から8月はじめの一時期に集中した、とある封書の嵐である。それは突然はじまった。ある日を境に、立派な封筒に筆で宛名書きされた分厚い封筒が集中して行き交ったのだ。宛名は「○○組 組長殿」である。
私が担当していたのが横浜市中区あたりだったというのがあるだろう。横浜にはこんなにヤクザの組織があるのかと思ったものだ。
もうひとつの「働く歓び」は、郵便局内を見物してまわることだった。「見物してまわる」といっても、そんなにあちこち移動できるわけではなく、私の散歩範囲はほぼ仕分け部門のフロアに限定されたわけだが、それでも面白いものがいくつも見つかった。
その一つは「郵便標語」である。
郵便標語という名称自体が正しいかどうか、私は知らない。局内で公募された「入選作」があちこちの壁、とりわけ人が行き交うエレベーター付近にたくさん貼り出されていたのだ。交通標語みたいなアレだと思ってもらえばいい。たとえば……
指さしと 点呼欠かさず 誤配ナシ
とか、
街角の 赤いポストは 心のきずな
みたいなヤツ。
以上の二つは適当に思いついたのを書いただけ。実際はもっと「傑作」があった。いまでも始業時にはこの標語を唱和する郵便局があるらしい。
ここ数年で郵便局のサービスは確実に向上したと思う。民営化に直面してかなりの意識改革があったのだろうが、私にとっての郵便局は相変わらず10年前のあの「ゆうメイト」体験にある。郵便物が多ければ時間ぎりぎりまで働いたが、少なければそれこそ午前3時には仕事を終えて、あとはタイムカードを打つまでの時間つぶしに費やされた日々。
年功序列(単に「年序列だったか?)の郵便局世界の、まったりした時間つぶしの控室で、私は読みかけだったDyson-Hudsonの"The Karimojong Politics"をちまちまと読んでいた。カリモジョン社会の年齢制度と政治権力の在処について論じられた民族誌だ。なんという符号だろう。
ふと考えてみれば、こうして終業時間(それは京浜急行の始発の時間でもある)を待っている我々「ゆうメイト」は、勤続年齢序列にも組み込んでもらえない最下層の寄生民なのだという事実がある。あの仕事に「はたらくよろこび」などなかった。だが、いまでも郵便事業を支えているのは、いろいろな不満を抱えつつ、低賃金でこき使われている「ゆうメイト」たちのおかげなのだということも忘れないでおこう。
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