マテリアリスト宣言
(Aug. 20/2006)
みうらじゅんの造語をそのまま使うと、ここ数日のマイブームはずばり70年代である。
(と、一行だけ書いてさっそくなのだが、「ここ数日のマイブーム」の部分ははじめ、「ここ数日の私のマイブーム」と書いてすぐに「私の」の部分を削除した。「私のマイブーム」は「マイ・マイブーム」になってしまうからなんだが、でもちょっと考えてみると「マイブーム」は一般名詞化しているから「私のマイブーム」でもおかしくないわけで……ま、そんなことをつらつら書いていると先に進めないから、ひとまず)。
飽きっぽい質(たち)なのでこのマイブームもすぐに過ぎ去ってしまうと思い、慌てて70年代日本語ロックをまとめて注文した。具体的にはティンパンアレーとかナイアガラトライアングルとか、そういうのだ。知っているつもりが、じつはちゃんと聴いたことがなかったのである。
きっかけは何だったかというと、先日、夏休みの居候を決め込んだ先の主人が70年代原宿でブイブイ言わせてた(なんて書くと怒られそうだが…でもほんとにそうなのだ、ブイブイ)人で、その辺から「長髪・口ひげ・ブーツカット」の70年代に心が飛んでしまったのである。
私が自宅の庭に秘密基地を作ったり、自転車に乗って電車ごっこをしたり、公園で「太陽に吠えろ」ゲームに興じていた頃にどんな音楽があったのか、気になって気になって仕方ない。
私が音楽に目覚めたのは1979年で(それ以前はわけも分からず「青い山脈」みたいな懐メロばかり歌わされていた)、いま気になっている当時のミュージックシーンとのつながりでリアルタイムに知っているのは例えばYMOとかスペクトラムとか、そのくらいだ。
そんなこともあって、2年くらい前に買ったYMOのファーストアルバム「Yellow Magic Orchestra」のCDを引っぱり出し、ヴォリューム全開で聴いてみた。このアルバムはとくにB面が好きで、LPでももう百回以上聴いているのだが、今聴いても時代遅れな感じはほとんどないと思う。ちなみにこのCDは、「Tong Poo」(坂本龍一作曲)に吉田美奈子のヴォーカルがなかったり、「中国女」(高橋幸宏作曲)の高中正義のギターパートがいくつかカットされていたり、「マッド・ピエロ」(細野晴臣作曲)のミキシングがずいぶん違ったりと、私の持っているLPとは若干中身が異なっている。でもその辺は語り出すときりがないから止めておこう。
ところで、こういう(多少なりともマニアックな)ミキシングの違いは、気になり出すとどうしようもなくなるもので、ついさっきなのだが、久しぶりにアナログディスクの同じアルバムを取り出して針を落としてみた。
「針を落とす」。なんて心地よい響きだ!
CD がいいのか、LPがよいのか。という議論は、音源のデジタル配布が当たり前となってしまった今ではあまり意味をなさないのかもしれないが、でもオーディオマニアのあいだでは常にアナログ側に軍配が上がる。私も断然アナログ派で、音の厚みと豊かさ、そして音場の奥行きと広がりに関しては絶対にアナログ・ディスクの方がすぐれていると信じて疑わない。
いまでこそ数百枚のCDを所有している私だが、それ以前はアナログ・ディスクをたくさん集めていた。CDばかりを買うようになったのと、西洋クラシック音楽をあまり聴かなくなったのには関係があると思う。いまでも大オーケストラの演奏、それもストラヴィンスキーの「春の祭典」などはアナログ・ディスクで聴いた方がいい。
音源がアナログ・ディスクとカセットテープから、コンパクト・ディスクやらMP3やらのデジタルに移行してしまって、失われたのは「接触」である。いわゆるレコードは針に接触し、盤面の山を拾って空気振動に換えていた。カセットテープだってテープ面とアモルファス・ヘッドの接触があってこそ再生できたのだ。いまの学生達は知りもしないだろうが、カセットテープにはノーマル、ハイ、メタルの3つのポジションがあって、私はTDKのSFとかSRといったハイ・ポジションのテープが好みだった。おなじ音楽でも、カセットテープの種類が違うとまったく音質が変わってしまったのだ。つまり素材のあり方が大きく左右していたのである。
カセットテープといえば、私が愛用したカセット・レコーダーにソニーの「ウォークマン・プロ」(WM-D6C)という製品があった。これにメタルテープを入れて、ドルビー・ノイズリダクションのCで録ると、これがなかなかいいのだ。面白いのが、WM-D6Cで「C」を入れて録ったテープを、今はなきAKAIのオートリバース機能付きカセットデッキで再生すると、まったく音が違ってしまうことで、これなんかは苦労の種でもあり、楽しみでもあった。
私の経験ではSONY製品は概して故障が多い。ウォークマン・プロもこれまで何度も修理に出しているが、いまもまだ故障中のまま研究室に置いてある。私のカセットテープ資産はかなりの数にのぼる(それでもかつて血道をあげて集めた吹奏楽関係のものはほとんど全て人にあげてしまった)ので、ウォークマン・プロも近いうちに修理に出す予定だ。ウォークマン・プロは性能もさることながら、あの「肌触り」がたまらない。
このプロダクトに近い感触を与えるのはなんだろう? 私の手元にあるものだとマッキントッシュのパワーブック1400がそれに近いだろうか。
コンピューターのようなデジタル機器でも「接触」が幸福をもたらすものはいくつもある。私が長いことほしいと思っていて未だに手に入れていないものに、オリベッティ社製のラップトップ・コンピューター「Quaderno 33」というものがある。いまから10年以上前の時点ですでにWindows 3.1がぎりぎり使えるかどうかという性能なのだが、これは素晴らしいプロダクトだ。
私は1994年頃に秋葉原で投げ売りされていたQuadernoに何度か触ったことがあり、当時は欲しくて欲しくてたまらなかった。投げ売りで11万円だったと思う。所有するだけが目的だったらちょっと買えない値段で、結局はそのチャンスを逃したために、今にいたるまで手に入れられない。
なぜ欲しいかって? 決まってるじゃないか、感触だよ、感触。触れたいだけなんだ。
私がマッキントッシュを好んで使っているのは、もちろんオペレーション・ソフトウェアに惚れ込んでいるからなのだが、同時に、アップルのプロダクトが「触れる歓び」を宿しているからでもある。
リコーのデジカメを使っていながらもオリンパスのOM-1を手放せないのも、CDとiPodで音楽を聴きながらもウォークマン・プロを修理しようと目論んでいるのも、あるいは、パソコンとしてはもはやほとんど使えないPowerbook 1400を秘蔵してなおかつ骨董品級のQuadernoを欲しいと思い続けるのも、そしてビニールのアナログ・ディスクを捨てられないのも、結局は「素材の感触」と「接触」が恋しいからなのだ。
「触れていたい」「触りたい」「モノとして残したい」、そういう欲望をなんと呼ぼうか。ひとまず私は、これを「マテリアリズム」を呼ぶが、これはもちろん「唯物主義」などと訳してはいけない。モノがそこにあって、それに触れることができて、なおかつそのことに幸福を感じるようであれば、その人はマテリアリストだ。
なにせ私は、iPodですらも「感触」に頼って初代モデルを使い続けている男である。そんなのマテリアリズムじゃないやい、フェティシズムだって言いたければ言ってもらって構わない。
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