書評のジレンマ
(Sep. 2/2006)
この文章は、はじめはジャーナルのエントリーとして書き始めたのだが、書いているうちに「これはtalk向きだ」と判断したので、こちらに書くことにした。
このところの懸案だった書評原稿のラフ版を完成させた。これで一晩寝かせて推敲を加え、文字数を整えたら編集部に送るつもりだ。
それにしても、書評というのは難しい。この難しさは、いろんな要因によるものだ。
書評というものの書き方にスタンダードがあるかどうか知らないが、少なくとも簡単な前提はふたつあると思う。つまり、(1)単なる内容紹介ではダメである、というのと、(2)感想をわめきちらすのでもダメ、というのと。
内容の紹介はもちろん不可欠である。上手な書評を書くポイントのひとつは、内容を咀嚼してエッセンスを取り出せるかどうか、という点にあるだろう。それは書籍が分厚くなればなるほど難しいわけで、きっちり読みこなしてもそのエッセンスを上手く取り出せるかどうかは、別問題なのだ。
たとえば、酒造りなどでは、雑味成分たっぷりの原酒を樽で寝かせて数十年、そうすれば雑味が抜けてまろやかな口当たりになるというプロセスを踏むが、書評原稿を書くのにまさか数十年待つわけにもいかないので、読みながら同時にエッセンスを抜き出す工程も同時にこなさないといけないのである。
もちろん大学生がよくやるように、本の中の言葉をぽんぽん抜き出して繋げていってもエッセンスは取り出せないわけで、最終的には自分の言葉で語り直さなければならないのだ。そんなカット&ペーストを繰り返していたら字数がいくらあっても足りないだろう。そのうえ、その「語り直し」が的はずれだったりすれば紹介そのものが大ハズレになってしまうわけで……ああ、緊張する。
もちろん感想も書かないといけない。研究書を書評する場合には、学問的背景をふまえた評価を下す必要があるから、ある程度専門が近い人間しか書評はできない。それも一方的な「叫き散らし」じゃあだめなわけで、きちんと客観的に評価しなきゃならない……ああ、緊張する。
評価には「肯定的評価」と「否定的評価」があるが、肯定的評価を下すにしても(まあ、大方は肯定的だが)、べた褒めは問題となる。べた褒めは書評の信頼性を疑わせる結果をもたらす。その疑いを回避するためのテクニックとして、9割褒めて1割苦言を呈する、というやり方もあるが、あんまりあからさまにやると却ってバレバレだから……ああ、緊張する。
私がいままでに書いた記事(書評というよりはみじかい書籍紹介)のなかで、一番トンチンカンでべた褒めモードだったのは、師匠である大塚和夫の本について書いた時だ。ここに再掲したので、読んでほしい。
むしろメタメタにダメな本を、客観的姿勢を維持しつつ完膚無きまでにたたきつぶすという書評のほうがやりやすいかもしれない。喩えが悪いかもしれないけれど、それは大学生の書いてくるレポートや論文(と称するもの)にコメントと指導を与える作業に似ている。
数年前とある学術雑誌で、私の友人がとある本の書評を書いていた。本の大枠から細部に至るまで細かく、事実誤認の指摘から記述の誤りまでありとあらゆる問題点を露呈させた書評だった。これは「9割否定して1割だけ褒める」という例であるが、こういう書評がでるとわれわれ研究者仲間のあいだではかなり話題となる。(ちなみに褒められた1割とは、エチオピアの入門書を出版しようという意欲、の部分だった。言い換えれば他の人にも同じ意欲を持ってもらって、もっといい本が早急に出版されて欲しいという願いだったのだろう)。
否定的書評を発表するということは、その著者に対して知的喧嘩を売ろうとしているのと同じだ。しかも書評を書いている方は自信と裏付けがなければ喧嘩を売ったりはしないから、はっきりいって「売られた方」がはじめから劣勢である。外野から見ていると、「9割否定」された本は、もうそのままの姿では書店に並べられないのではないかという気もしてくる。(ちにみにその本はいまでも堂々と売られている。アムハラ語のカタカナ表記すらも間違えているような本がエチオピア入門として売られていることは大問題だと私は思うのだが)。
さて、私が書き上げた書評原稿は、ちゃんと内容のエッセンスをとりだしているだろうか? 評価も、枝葉末節ではなく、きちんと根もとから幹の部分を見据えて書かれているだろうか? それは客観的な評価だと思ってもらえるだろうか?
大学院生になったころ、指導教員から「書評原稿をたくさん書け」と指導されたことがあった。なぜなら書評を書くことは、単に読んで感想を述べることではなく、上に書いたような緊張を伴うプロセスがあるからだ。これを経験することが、すなわち勉強なのである。
前のページへ