環境問題を編集しちゃえ!
(Jan.17/2007)
いまさらいうまでもないことなのだが(……というのも、知らないでこれを読んでいる人がいると困るから書くけれど)、私は長崎大学環境科学部というところで教鞭を執っている。(突然気になり出す、「教鞭」と「執る」ってすごい表現だな。教育ってのは「鞭」を手にとってやるもんなのか。)ここでの私のメイン科目は「環境人類学」である。ついでに書けば、修士課程では環境人類学特講、博士課程では環境人類学特論という科目を担当している。
どうだ、なんでもかんでも環境だぞ。
環境科学部の教員としてふさわしい政治態度ではないが、私は「環境は次第に悪化しつつある。いまこそ我々は消費文明を反省し、宇宙船地球号の乗組員として一致団結しなければならない」という環境プロパガンダにも、「環境問題なんてデタラメだ、そんなものに科学的根拠なんてなにひとつありゃしない」というアンチ環境派のアジテーションにも与するつもりがない。
ついでに書けば、京都議定書を批准しないことをもってアメリカを非難し、先端的消費超大国を槍玉にあげるような政治的すり替えも大嫌いだ。環境問題は政治問題でもあるが、政治問題にすり替えて良いってわけじゃない。
まあ、ようするに、環境問題というものがあるのかないのかについては、いまのところほとんど何も信用していない。
ほっとけば海水面は上昇するんだろうな、とは思う。
地球温暖化の原因のひとつはたぶん二酸化炭素だろう、とも思う。
真夏日がやたらに多いとか、暖冬が続くとか、気象がへんだな、という気もする。
ほら、書き出してみると、こんなもんだ。思う、とか、気がする、とか、その程度である。
環境問題を政治問題にすり替えるのは大嫌いだと上に書いたが、環境問題を政治問題として読み解くのは間違っていないと思うし、実際、「環境問題の政治性」は重要なトピックだと思っている。環境人類学の分野で私が興味を持っていることの一つは「政治問題の環境問題化」と「環境問題の政治問題化」なのだから。
さて、こんなふうに、環境プロパガンダに乗れない私は、テレビのエコ番組に対しても冷ややかな視線を向けてしまう。
いま。まさに今、TBS系のニュース23がアメリカの元副大統領アル・ゴアを招いて「地球破壊」という特集を放送している。ふだんからテレビ欄などノーチェックでザッピングオンリーなもんだから、ふと「海面上昇」なんていうシミュレーション映像を目にするまでこの特集を知らなかった。
もちろんこれは、近日公開の映画「不都合な真実」のキャンペーンを兼ねているのだろう。ブッシュ・ジュニアに負けてからのゴアは頑張ってると思うし(民主党の人たちって退陣した後に活躍しますね、どういうわけか)、映画そのものも価値あるものだと思う。
でも、環境問題をメディア情報として送り出す場合には、普通の政治的演説なんかとちがって、もっともっと細心の注意を払うべきだろう。「不都合な真実」がどういった編集をされた映画なのか知らないが、日本語版の公式サイトを見る限り、ひょっとするとプロパガンダ映画に成り下がっているかもしれない、という危惧を抱かざるを得ない。
映像はカットとカットをどのように切り貼りするかで、なんとでもメッセージを作り出せる、そういうメディアだ。「地球温暖化」という話題の中で「真夏日が多い・暖冬が多い」という話題をつなげてしまえば、「温暖化したから夏が暑くなった」というバカ論理がいとも簡単に成立してしまうのが映像メディアだ。
民衆はそれほど賢くない。メディア情報を読み解けるほど賢い民衆が存在する比率は、まっ白なカラスの存在比率よりすこしだけ高いくらいだ。
特集「地球破壊」には、地球温暖化に関連してアフリカでの取材映像が織り込まれていた。取材対象はケニア北部のトゥルカナである。なんでも「地球温暖化のカナリア」と呼ばれている人びとなんだそうだ。はじめて聞いたぞ、地球温暖化のカナリアだなんて(いま検索しても一件もヒットしなかった)。
要するに、こうだ。地球温暖化の影響で家畜がつぎつぎに倒れ、居住域を移さざるを得なくなっているトゥルカナの人びと。彼らの生活は苦しく、なかにはトゥルカナ人としての生活を放棄して町で暮らす人びとも出始めている。
トゥルカナの老人はカメラの前でこう語る。「昔に比べてどんどん悪くなっています。子どもたちに優先的に食事を与えるので、大人は2日に一度しか食べものを口に出来ません。」
若者は自分の子供を前にしてこう語る。「この子たちには未来はありません」と。(もちろんこの発言は、無垢な乳飲み子の映像にかぶせられている。こういう編集は常套手段なのだろうが、観る側の解釈を誘導するようなものであり、私は好きになれない。)
取材班はトゥルカナの生活が悪化した原因である干ばつの、その遠因が、先進国による大気汚染や二酸化炭素の排出であることを伝え、老人の発言を引き出す。「ぜひ空気をきれいにしてください。そうすれば私たちの生活もよくなるでしょう」。
いったい、トゥルカナの老人にどんな環境教育をしたのだろう。あるいは、当の日本人スタッフはどんな顔をして二酸化炭素の排出を説明したのだろう。取材班が回しているそのカメラでさえ、二酸化炭素と引き換えに製造されたというのに。
環境問題を語る「語り口」はいつも、「昔はよかった、いまはひどい、ますますひどくなる、これからどんどんひどくなる」という「絶望の語り」だ。
日本の気象がおかしいらしい。そんなこと私が小学生だった頃から言われていて、すでに暖冬も猛暑も異常でもなんでもないのだが、そんなことを口にすると「お前には長期的展望がない、環境問題は数十年、数百年スパンで考えなきゃならんのだ」と言われてしまいそうだ。だが「絶望の語り」には欠陥がある。
日本の気象がおかしい。と紹介した次の瞬間、日本のコメ農家の不作の状況が伝えられる。コメ農家の発言、「今年はダメでしたねえ」。農学者は「コメは気象の変化に敏感な作物だ」とお墨付きを与える。つまり地球が温暖化して、日本の気象もヘンになって、コメがとれなくなったという論法が成立する。
日本の気象がおかしい。と紹介した次の瞬間、色むらのあるリンゴが映し出され、農学者の「今後、リンゴの栽培域は北上するでしょう」という長期予測がつなげられる。リンゴの産地は将来的には青森から北海道になるというのだ。
天の邪鬼的な見方をすれば、こうした絶望の語りは、北海道にとっては絶望でもなんでもない。もちろん絶望の舞台として北海道を取り上げることは可能だ。そのときは、たとえば「雪が積もらなくなった」とか「富良野のラベンダーが育たなくなった」とか「エゾシカが頭数を減らした」とか、そういうのが取り上げられて、北海道のコメ作は近年好調とか、将来はリンゴが有望とかいったポジティブな話題は触れられないだろうよ。
絶望の語りは、たかだか30年とか50年とか70年といった年月を生きたに過ぎない人間の記憶を、数値データの残っている近年の「客観的証拠」によって裏付けることで成立する。でも「昔」っていったって、せいぜい戦前戦後のことであって、それ以前の記憶はとうに失われている。気象の記録だって明治初期にしかさかのぼれない。過去の大局的な気象変動だって環境プロパガンダにとっては過去のことである。都合が良いったらありゃしない。
過去は大事だ、だがいま必要なのは未来を考えることだ。ってアジテーターは言うだろう。「みなさんも考えましょう、いま私たちに何が出来るかを」って。
トゥルカナに話を戻せば、彼らは環境脆弱性がとりわけ高い人びとである。最新のエスノグラフィーによれば過去200年くらいの間の、トゥルカナの居住地移動と生活変化は凄まじかったらしい。(ちなみに番組では千年以上にわたってまったく変わらぬ人びと、と紹介していた。何を根拠に……とほほ)。「地球温暖化のカナリア」といえばなるほどそうだが、だが「カナリア」は死んで初めてメッセージを送るのだ。トゥルカナに対するカナリアの比喩はあまりに失礼である。
さあみんな、砂漠化と、海面上昇と、コメの不作と、オゾンホールの拡大と、ゴミ問題と、環境ホルモンと、酸性雨と、諫早湾の干拓と、ブッシュのイラク政策と、少年犯罪と、メタボリック症候群と、「ら」抜き言葉と、憲法改正を、ぜーんぶひっくるめて編集しちゃえ。
都合の良い真実はいくらでも作れちゃうぞ!
こうなったらあとは何を信じればいいのか。その答えは勉強しなきゃ見つからない。勉強しないと見つからない。勉強しないヤツは「常識」と「良識」と「世知」に縛られておれ。
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