日本的ブログの活用法
(Jan.19/2007)
前回のTalkで、とあるテレビ番組での環境問題特集をとりあげた。
番組の企画それ自体は決して無意味ではないし、むしろ番組の影響力の大きさを考えればたいへん有意義なのものである。そのことを認めた上で私は、編集によって問題がかなり単純化されてしまっていることへの疑念を表し、ついでにマスメディアが流す情報を読み解けない人が当然いるだろうという危惧を訴えたつもりである。
その危惧は当たってしまった。
番組では、ケニア北部の牧畜民トゥルカナが「地球温暖化のカナリア」と呼ばれていると述べていた。それに対して私は、「地球温暖化のカナリア トゥルカナ」という二つの単語で検索しても一件もヒットしなかったという事実を書いた。
それが放映後2日で19件になっている。0件が19件になったのは「19倍にふくれた」とは表現できないが(0×19=0なので)、あの番組が「無から有を作り出した」とは言って構わないだろう。
現時点で、「地球温暖化のカナリア トゥルカナ」でヒットする19件は、いわゆる「ブログ」である。そのうち、私が訪問して確認したものはみな、番組内容をそのまま複製して紹介しているだけだ。
かつてブログが登場した頃、まだweb-log=ウェブログと呼ばれていた頃には、これがマスメディアへの有効なカウンターになりうるという妄想がまかり通っていた。たとえばnikkei BP netの記事「ブログがオールドメディアを変える」を見よ。従来のマスメディアは「オールドメディア」、ブログは「ニューメディア」(懐かしい言葉だ……)なんだそうだ。
たしかに、マスメディアとブログはまったく性質が違う。だが、だからといってそれがメディアを根本から変えるかというと、そんな簡単にはことは進まない。なぜなら、一人で書けちゃうブログの場合、書き手個人のメディアリテラシーが真剣に問われるからだ。
少なくとも、日本語で垂れ流されている個人ブログの多くが個人的日記帳を越えて「ニューメディア」としての自覚を持っている、などとは思わない方がいい。
イノセントでナーバスなブロガーが、テレビを観てトゥルカナ人の過酷な生活に衝撃を受けるのはかまわない。だが、番組(マスメディア)の言っていることをそのまま書き写したり鵜呑みにしたりするだけでは、メディアリテラシーと批判能力の無さを露呈するだけになってしまう。しかも彼らが、番組の言っていることをそのまま垂れ流すことで、トゥルカナの「地球温暖化のカナリア」としての役割はどんどん定着していってしまうのだ。
ところで「地球温暖化のカナリア」という表現だが、番組が自信たっぷりに紹介しているからにはなにか裏付けがあるんだろうと思って、調べてみたのだ。
「global warming turkana」でもいくつかヒットしたが、肝心のカナリア(canary)が引っかからない。そこで「canary turkana」だけで検索すると、どうやらそれらしい情報源にぶつかった。
ジェリー・スミスという人が昨年の11月に書いた「Climate change 'genocide' threatens Kenyan herders(気候変動による人種殺戮がケニアの牧畜民を脅かす)」という記事がそれである。(ちなみに微妙にタイトルの違う、ほとんど同じ記事がhttp://iafrica.com/news/features/409808.htmにも出ている。)
「カナリア」に該当する箇所は"It is cruel irony that these people, who have done so little to contribute to climate change, could become the world's 'climate change canary,' as their traditional way of life is extinguished by global warming."(地球温暖化にほとんど影響を及ぼしていないトゥルカナ人たちが、世界的な気候変動のカナリアとなってしまい、地球温暖化の影響によって伝統的な生活様式を奪われているのは皮肉なことです)という、あるミッション系援助関係者の発言である。
なるほど。「地球温暖化のカナリア」じゃなくて、「気候変動のカナリア」だったわけだ。
そうだと分かって「Turkana climate change canary」とう四つのキーワードで検索すると、グーグルでは475件ヒットする。この中に日本語ページは含まれていない。ちなみに日本語で「気候変動のカナリア トゥルカナ」と打ち込んでも一件もヒットしない。
これは何を意味するのか。おそらくこうだ。
おそらく英語圏ではトゥルカナ人を「cliamte change canary」と呼ぶことがある程度定着していた。ところが日本で放映されるまでの過程のどこかで「気候変動」ではなく「地球温暖化」のカナリアになってしまった。それが放映されて、ブロガーたちがそのまま書き付けたものだから、「無」が「有」になってしまった。こういうことだろう。
翻訳に関しては、あんまりうるさいことを言いたくない。厳密に言えば気候変動と地球温暖化は異なるが、英語記事を見る限り両者は密接に連関していると捉えられているようだから、用語のすり替えがあったとしても断罪するほどのものではない。だが、番組のコンセプトのなかに置き直したとき、やはり問題を含んでいるという気がしてならない。
それにしても、トゥルカナはうまいこと使われてしまった。低エネルギー生活で、自然資源に全面的に依拠し、石油を消費しないアフリカの牧畜民。ただえさえ我々から見て「酷」な生活が、気候変動によって「過酷」になっている。という描き方によって、環境に無関心だった人びとに己の生活を反省させる。トゥルカナは格好のイメージを提供してくれたのだ。
だけれども、トゥルカナの窮状が「気候変動」によってもたらされたというのは従来のとらえ方であって、それが直接「地球温暖化」と結びつくかどうかは、また別問題だ。トゥルカナはこの点でも、プログラム構成上うってつけだった。トゥルカナの土地はいかにも「暑そう」に見えるからだ。
面白な、と思ったのは、そういうブログに多くの人がきちんとコメントを残していることだろう。mixiでも同様である。どうやら身内の間に情報を回して、みんなで共有する、というのがブログの使い方らしい。へぇ。そんなふうに広めていくためには、アフリカって活用し甲斐があるんだなあ。
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