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研究会が「集団アカハラ」……はぁ??? 

(Feb.11/2007)



 学年末である。1月末から修士論文や卒業論文の提出があり、それに伴う研究発表会が目白押しだ。

 長大に来てからずっと、この手の研究会に出席するたびに、盛んに手を挙げて質問やコメントを発してきた。別にいじめてやろうとしているわけではない。ただ、「この研究、ちょっとおかしいぞ」と思ったら、それをそのまま素直に言葉にしているだけだ。

 でも、その「素直な言葉」が常識の度を超えた厳しい発言と受けとられることもある。だからだろう、私を含めた数名の教員は、この手の場では明らかに嫌われている。いや、学生だけではない。その学生の指導教員にも嫌われているかもしれない。学生の研究にケチを付けるのは、間接的にその指導教員の「指導」のあり方にケチを付けているようなものだからだ。

 だから、なるべく相手の人格とか尊厳とか、そういうのを傷つけないように気を遣って、研究内容とそれに対する態度に絞って質問やらコメントやらを浴びせているつもりである。

 じつは議論というものが苦手な私だが、都立大の大学院で鍛えられただけあって、研究会での身の処し方には結構慣れている。質問を見つけたり、意見論述を組み立てたりしながら発表を聞き、自分がどういう出方をしたらよいのかを考える。そういう判断力はかなり養われた。それは都立大の人類学研究室の風土があったからである。

 いや、まともな大学院なら厳しいコメントの飛び交う研究会があって当たり前。そういう場でなんとか生き残れた人だけが学位を取って研究職に就くのだし、そういう厳しさが自分に向いていないと思った人は自然と他の道を探し出す。

 そういう厳しさにさらされもせず、なおかつ研究発表に厳しいコメントを受けることを「ハラスメント」を感じる人がいるとしたら、それはとんでもない間違いだ。

 かつてこんなことがあった。

 弁舌軽やかな卒論発表をする男子学生がいた。その軽やかさは、まるで新製品の発表会かなにかのようで、とりあげたテーマは労働問題に関するもの(だったと思う、うる覚え)だった。

 弁舌が軽やかなので、ついついスムーズに聴き入ってしまう。だが、なんかおかしい。なぜなら、スライドに次々映し出される表やらグラフの出所が不明だからだ。発表を聞きながら、私の頭の中では「騙されたらいかんぞ」という声が高くなる。そして質問タイムに手を挙げて、ほんとに口にしてしまったのだ。

 「ぼくは騙されないぞぉ!」

 スライド資料の出所を聞けば、それは労働白書だという。次のスライドも、その次のスライドも、みんな労働白書だという。じゃあ君の発表って、労働白書じゃないの。どこに研究があるのよ。

 発表会の場で彼が証明して見せたのは、「研究をした」という実績じゃなくて、労働白書をかいつまんで説明できる、という能力だったのだ。

 こんなこともあった。アフリカでの内戦問題をとりあげた卒論の発表。テーマ自体はとても重みのあるものだし、アフリカの戦争は私の専門のひとつだ。どうしても専門家としての立場から聴いてしまう。

 聴いて唖然とした。一言でいえば、そこには新たな発見はなにもなく、新聞報道と同じレベルの誤解や曲解だけが満ちあふれていた。批判的検討もない。すでに多くの研究が積み重ねられている事例が、どうしてこんな凡庸な内容にまとめられるのか。理由は簡単である。「手抜き」だ。

 私は手を挙げて、内容を確認する質問をした。彼女は、先の凡庸な説明を繰り返した。私は、すでに多くの研究がそうした俗説・通説を乗り越えて、より高いレベルに達していることを指摘し、先行研究のサーベイがまったくなされていない点を批判した。(実際、論文の参考文献欄には、その内戦を研究しようとする者ならば必ず目を通さなければならない論文がひとつも掲載されていなかった。手抜き以外のなにものでもない)。

 場内は凍りついていた……と、後になって聞かされた。

 たかが卒業論文に対して、そういう専門家的な厳しい態度で臨むのは度が過ぎている、という意見もあるだろう。だが、それは間違っている。

 環境科学部の文系卒業研究は6単位だ。つまり、週に13時間半も時間を割いた成果だと認められなければならないのである。そんなに時間を割くことが出来なくても、なんらかの発見や新資料が含まれていなければ、論文とは呼べない。労働白書をかいつまんでまとめたり、手近な本を読んで通説をなぞるだけのものが論文なわけがない。

 すくなくとも、研究論文を仕上げた時点で、その問題については他の誰よりも詳しいという自負がないといけないだろう。そこで手抜きが発覚したり、研究の不備が見つかったりしたら、相手がプロだろうと学生だろうと批判するのは当然の態度だ。

 研究論文といえば、心血を注いで完成させるものである。それをきちんと聞いて、到らない点があれば問いただすのは当たり前である。もし、「そんなに真剣に聞かないでいいです。むしろ受け流してください」というのなら、それは手抜きのいい加減な成果であることを暴露していることにほかならない。言い換えれば「卒業あきらめます宣言」だ。

 その辺のことがぜんぜん分かっていない学生たちは、自分の発表に増田が手を挙げないことを祈っているに違いない。あるいは、発表に対して厳しいコメントが付されることをさして、「研究会は教員集団が学生を理不尽にいじめる集団ハラスメントだ」と陰口をたたいたりするのだろう。

 研究会は集団アカハラ。そう思っている人がいたら、私のところに言いに来たらいい。環境科学部の410号室だ。受けて立つ。