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修士論文発表会でメンチを切る

(Feb.12/2007)



 これから書く文章のほとんどは、昨年の今ごろにWork Journalに掲載した日誌の文章である。昨年の修士論文発表会で考えたことを書いたものだった。

 Talk147で、研究発表とはどういうものかについて考えを述べたとき、ふと思い出してここに再掲する次第である。

 今年の修論発表会(数日前に開催された)ではそれほどのことはなかったのだが、昨年の発表会では、発表の後の質疑応答タイムにしばしの沈黙が訪れることが多かった。それが、この文章を書く直接のきっかけである。

 質疑応答タイムの沈黙にはいくつかの種類がある。



 (1)難しすぎて理解できなかった。だから手を挙げられない。

 (2)質問したくても、ひょっとすると初歩的すぎて恥をかくかもしれないから黙る。

 (3)言いたいことは沢山あるけれど、うまくまとめて発言できないから黙る。

 (4)箸にも棒にもかからないから、あざけりを込めて無視する。



 思いつくのはこんなところだ。(1)の場合は本当に難しかったのかもしれないし、あまりにぶっ飛びすぎて失笑を買っているのかもしれない。いずれにせよ、場の空気に馴染まない発表のせいにすることができる。

 (2) は、とくに学生たちに多いタイプだろう。こんなこと聞いちゃ恥ずかしいだろうな、だから黙っておこうという守りの姿勢。「的はずれだったら恥ずかしい」という心情もこれに近い。(逆に、みんなが知っていることや、なにもここでいちいち聞かなくても……とみんなが思うようなことをしつこく聞く人がいると、時間の無駄だし、第一、鬱陶しい)。

 (3)は、聞き手としての能力を磨けばなんとなる。

 一番嫌なのが(4)だ。こういう場合には、えてして、その場にいる多くの人が同じような感情を持っていることが多いから、結局誰かがみんなの意見を代弁することになる。あとはやり方の問題で、2割くらい褒めながらおだやかにコメントするか、理路整然とこてんぱんにたたきのめすか、どちらかだ。

 私の場合は、相手を足腰経たないくらいに「のす」ようなことはしていない、と思う。やったとしても、それは論文の内容と、それを書いている執筆者としての個人を攻撃しているわけで、べつに人格攻撃をしているわけではない。

 そういう点を含みおきさえしてれば、修論発表会ではやはり、徹底的に批判することが必要だろう。なにせ、相手は修士号をとろうとしている人たちなのだから。

 内容もさることながら、パワーポイントを使ったスライド発表のスタイルにもこなれていない点が多くて、私をイライラさせるものがいくつかあった。

 スライドを20枚使ったプレゼンテーション・ファイルを用意したとしよう。スライドとスライドの間には、必然性の明白な「つながり」が見えていなければならない。

 スライドA (だから・したがって) スライドB

 スライドA (しかし) スライドB

 スライドA (たとえば) スライドB

 スライドA (つぎに・そして) スライドB   etc...

 ・・・といったつながりだ。これが見えていないスライド作りは失敗である。つながりが見えないまま20枚ものスライドを見せられたら、誰だって「それで、何が言いたいの?」と聞きたくなる。

 されに、スライドが20枚あれば、一枚一枚が、全体の中でどのように位置づけられるのか、事例なのか、仮説なのか、条件提示なのか、解説なのか、発見なのか、補足なのか、そういうのが分かるようなストーリー運びになっていないと、これまた聞き手の頭を混乱に導く。

 ある時、私はわざと「一見、的はずれなコメント」をやった。意図的に2回やったのだ。もちろん、私のコメントを聞いて周りの人たちは「発表者がすでに言ってるじゃないか。増田は何を言っているのだ!」と思っただろう。そうじゃないのだ。発表者は言っているし、スライドにも書いているけれど、位置づけが不明確なままスライドだけを作ったってしょうがないのだ。そしてその「位置づけ」をきちんと発表できていないのだから、私にメンチ切られたってしかたない。

 もうこの辺でやめにしよう。

 論文のストーリーを決めるのも、言葉を選ぶのも(←これがぞんざいなために、どれだけの修士論文がクズになっているだろう!)、スライドを作るのも、みな学生だ。

 しかし、私の見るところ、経験豊かな教員が的確に指導していれば防げた不幸も多かったはずである。修論発表会での気まずさの半分は、指導教員に責任がある。