共感とコメンテイター
(July 2/2007)
1993年に始めてエチオピアに行ったとき、数え切れないくらいたくさんの驚きを目にした。そのベストスリーを挙げろと言われれば、
・ハエが顔にとまること
・乞食がたくさんいること
・お金が汚かったこと
を挙げるだろう。残念ながら「可哀相な子どもたちが働かされていること」というのは入らない。
ハエが顔にとまるのは、生理的な嫌悪感からくる強烈な印象をもたらす。ハエなんて日本でもさんざん見てきたが、人間の皮膚で羽を休めるようなハエは見たことがなかったのだ。私の場合、ハエを「汚い」と思ったり、「怖い」と感じたりすることはなかったが、ハエがほっぺたを歩き回るのを「くすぐったい」と感じる感性は持ち合わせている。
ちなみに、学生たちはハエ一匹が教室を飛び回っているだけで、気になって集中できないらしい。自分の近くを飛んできた日にゃあ、きゃあきゃあ叫ぶ。そっちのほうがよほど五月蠅い。ハエごときで騒ぐな。
すくなくとも、日本のハエは噛まないからさ。
乞食については、まとわりつかれて辟易したという体験による。と、同時に、周囲の乞食の存在が、自分自身を相対的な「金持ち」(いや、エチオピアでは私は絶対的な金持ちだった)として認識させるに十分だった。だから驚きのベストスリーにはいる。
お金については……、見たい人には現物を見せてあげよう。汚くて、臭くて、てかてか光っているのだ。エチオピアじゃ、使用感のない、手の切れそうな新札は、かえって偽金として疑われてしまう。
ところで、「子どもたちが働いていること」は、はじめてエチオピアに行ったときもそれほど驚くようなことではなかった。就学率が低く、仕事をしている子供が多いということはあらかじめ知っていたし、そういう労働分配が個別の社会システムによって違うのだというのは、学者の卵としてしごく当たり前のことだったからでもある。
だから、バンナの子どもたちが働いているのもちっともヘンに感じなかったし、むしろあまりにナチュラルで、自分も一緒に仕事をやっちゃったくらいだった。
『世界がもし100人の村だったら』という本について知ったのはいつだったろう? それによって、世界の不均衡に目を見開かされたという大学生や、塾の生徒たちからいろんな話を聞かされてきたが、私自身はまだ読んだことがない。
それがテレビ番組になっているというのも、まったく知らなかった。教えてくれたのはゼミ一期生のMKで、彼女はそこから触発されて児童労働をテーマにした卒業論文に取り組んだ。児童労働に関する、すべての資料を当たったわけではないし、第一、資料のほとんどは日本語だったということもあって、けっして「十分論じ尽くした」というものではない。だがその結論は、控えめだがそれなりのものだった。
記憶では、MKは最初、その番組を見て「世界にはこんなに可哀相な子どもたちがいるんだ」と衝撃を受けたそうだ。となれば、「児童労働絶対反対! 子供の人権を守れ!」というアジテーションに走りそうなものである。だがMKはそういうふうにはならなかった(これは私がもっとも安堵したことだった)。彼女の議論は国連が定める児童労働の定義を吟味し、その概念が研究者によっていかに恣意的に使われているかを指摘した上で、「児童労働として糾弾されるべきは、国連が定めるところの、"最悪の形の児童労働"に限られる」というところに落ち着いた。
偶然だが、昨日その番組の第5回が放映されていた。エチオピアで金の採掘に従事する少年、ロシアで軍事訓練を受ける少年、そしてフィリピンでゴミの山を漁る少女、この3人をとりあげたものだった。ロシアとフィリピンのロケには、日本の女性タレントが出向き(なんでエチオピアには行かなかったんだろう?)、スタジオではまたまた何人もの芸能人がコメントを述べあっていた。視聴者からのファクスも受け付けていたようである。
エチオピアで金採掘に従事しているのは、アベティという名の9歳の少年である。ナレーションによれば、父親が失踪してしまったため、アベティは母と兄弟たちの生活を守るために、7歳から金の採掘現場で働いているという。
これまでいろんなテレビ番組を、「マスメディアによる異文化表象」という観点から見てきたが、今回の「世界がもし〜」もまた、日本のテレビ番組制作の常軌にきっちりおさまる作り方をされていたようだ。
ナレーションがストーリーをひっぱり、人々の発言には日本風のアフレコがかぶされ(登場人物たちが何語をしゃべっているのか、音が小さくて聞き取りにくかったが、たぶんアムハラ語だろう)、可哀相なアベティと「強制労働」の首謀者である雇用主が対比的に描写される構図。
この番組はいったい何を訴えたかったんだろう? アベティの労働のあり方を、専門家が解説してくれるわけでもないので、これを「世界を知るための啓蒙番組」として認めるわけにはいかない。フジテレビはこれをドキュメンタリーとしてジャンル分けしているが、それはちと強引である。芸能人が一素人として意見を述べ合うのは構わないけれど、じゃあそれで何を訴えられるのだ?
そもそも「世界がもし〜」は、統計に基づく比率(パーセント)を人口規模100人の村の比喩で示して見せたものである。その提示の仕方は上手いと思う。だが、人間ドラマのテレビ番組にしてしまったら、その啓蒙的価値は、違うものにすり替えられてしまう。
そこから得られるものは何だろう? ……共感? だがそれは、視聴者が、自分の体験と共約可能なものをかろうじて探し出し、それをマッチさせることで得られる共感に過ぎない。アベティ少年は茶色い水を飲む。日本で透明な水を飲んでいる人々はそれをみて、「なんて汚い水を……」とアベティに同情する。挙げ句の果てに「日本は豊かすぎる!」と言い出す。そんな共感から、世界の不均衡は是正できるのだろうか。
この番組に、どれほどの啓蒙的価値を期待したらいいのだろう。ネット上で話題となり、ペイするくらいの視聴率を稼げば、一定の啓蒙的役割を果たしたといえるのだろうか?
最近のテレビ番組では、リポートの放送は「素材の提供」に過ぎなくなり、その後をコメントで押さえるという手法が一般的である。社会保険庁のていたらくを短いビデオリポートによって報告し、コメンテイターが「国民の怒り」を代弁する。偽装牛ミンチを販売していた精肉メーカー(皮肉なことだが、一連の偽装工作が明らかになったことで、このメーカーの技術の高さと、消費者のフード・リテラシーの低さが露呈された)についてのビデオのあとで、消費者を代表するコメンテイター(女性だったりする)がオチをつける。
ここで重要視されるのは、リポートの部分ではなく、コメントだ。
ちなみに、こうしたコメンテイターの出現、あるいは、ちょっとした感想が解説にまで昇格してしまう現象は、かつてのTVスクランブル(日本テレビ系、1982年〜1985年)での横山やすしが最初ではないか、というのが私の目下の仮説である。
「過酷な生活を送る少年少女」の事実をリポートすることは、マスメディアにとって重要な任務だ。そこにコメントを付けるのも必要だろう。だが、その任務からすると、コメンテイターたちが導こうとする共感が、どれほどの重みを持つのか、きちんと考えなきゃならないだろう。
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