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メタサイエンスにおけるディシプリンの分離/融合

環境学のあるべき姿に関する妄言
(July 16/2007)


 この文章は2006年10月下旬に某所で行ったショートプレゼンテーションの原稿である。プレゼンテーション自体はこの原稿をもとに10分程度おこなっただけで、さしたる反響もなかったが、それが「あまりに当たり前すぎて」のことなのか、あるいは「あまりに不快で」なのかは、私にはよく分からない。前者であれば良い、というのが私の希望である。

 ついでに希望を言えば、この文章は長崎大学環境科学部の学生たちにこそ読んでほしいと思う。

 本来であれば、ここで述べている「妄言」は、しかるべき典拠を示しながら「論文」としてまとめられなければならない。だが、現状では時間的制約もあり、論文としてまとめるのは私の身に余る。よって、ひとまずここで、talk(というよりは一人語り)として提示する次第だ。

1. 環境学はメタサイエンス(meta-science)である。それは既存学問のボーダーを越境しているという意味でも、近代サイエンスの超克を目指すものであるという意味でも、メタサイエンスである。

2. それに対して、われわれ個別の研究者=教員が専攻するものは細分化されたディシプリン(discipline)にすぎない。ディシプリンは対象とする問題領域と研究手法が、ある一定範囲内に限定されている限りにおいて効力を発揮するものである。

3. このディシプリンを越えたメタサイエンスとしての融合を計らぬ限り、環境学は効力を発揮し得ない。

4. また同時に、メタサイエンスとしての環境学は、既存学問領域に対するオルタナティブとして、今後のサイエンス一般に対して基礎を提供する使命を負う。

5. 個別のディシプリンのみによる問題解決の試みは、限定された範囲内においては効力を発揮するだろうが、トータルな解決には結びつかない。ライダーキックによって怪人Xは倒せても、組織としてのショッカーの殲滅には至らない。(しかも怪人Xのような絶対悪がいればことは簡単だが、環境問題における絶対悪の同定には多様なパラメーターを考慮せねばならず、こうなると絶対普遍の価値に立脚することにも限界が見えてくる。)

6. さらに言えば、「地球環境問題解決」という大儀のために敵を見定めて必殺技を編み出す大政翼賛的態度も馴染まないし、また、絶対普遍の価値観を社会に無条件に浸潤させる洗脳もふさわしくない。

 環境問題はきわめて政治的な条件をともなって立ち現れてくる。したがって「問題」として認識された事柄すべてを一挙に解決する最適な方法は「洗脳」しかないだろう。もちろんその場合は、「環境が大事!」という絶対普遍の価値を確立せねばならず、そのうえ「洗脳」の政治的正当性が保障されなければならないが、そのようなことが現実的であるとも言えない。

7. 事実として、すでに目の前に(そして身の回りに)存在する環境問題を「問題」として前景化し、その解決のための学問的営為に身を投じるとするならば、メタサイエンス=超ディシプリンとしての環境学を構想する必要がある。それは20世紀を牽引してきた近代思想を相対化することから始まり、問題解決に向けた個別の社会制度、技術、思想をトータルで提供するパッケージデザインを必要とするはずだ。

8. そうした環境学のトータルパッケージを、しかし、全世界普遍のものとして構想することは極めて難しい。なぜならばそこには生物多様性と文化多様性が横たわっているからだ。

暴論である、という批判が出ることを敢えて承知の上で、環境に対する社会的取り組みを軍事行動に喩えてみよう。環境問題が現に存在するという現状において、その解決に向けた運動を展開するには、私見によれば以下の四つの条件を満たす必要がある。

(1) ある種の普遍(とされる)価値に対する帰依

(2) 部分的解決だけでは解決し得ないオペレーション・エコ(環境大作戦!)としての、ホーリスティックな作戦行動

(3) 全体のためには個々の部分的利害にはある程度目をつぶること

(4) そして最後に、敵を見定めた上での作戦行動

現実には上記四つの条件が満たされたことはない。最後の項目だけを見ても、敵はときに有害物質であり(排除の対象として)、気候変動であり(全体像のつかめない脅威の接近として)、ときには人間である(ねじ伏せる対象、あるいは懐柔の対象として)

9. 長崎大学環境科学部において「学部是」として提出された文理融合を成し遂げるためには、個別のテーマと個別の対象領域における壮大な社会実験を繰り返さなければならないだろう。もちろんそのために必要な条件は数限りないが、上に論じたような環境学のパッケージデザインのためには、文系・理系などという(高校の教育課程に準じた)ばかばかしい区分を超越(メタ)できる強力なリーダーが必要なのは確かである。

もちろん「環境」そのものが欲望の対象となり、「役に立つもの=換金可能なもの」としての地位を確立してしまった現在でも、私の言う「強力なリーダー」は、「金集めのカリスマ」を意味しない。

10. Generalに対してSpecial、Universalに対してParticularを対置してみると、ここまでの議論は、いかにも技術的な面でのGeneralistと、価値観におけるUniversal に力点を置いているように見えるかもしれない。だが、個別ディシプリンの重要性はいまさら指摘するまでもなく、むしろ、そうした対立軸を越えるものを見いだせないと、メタサイエンスとしての環境学は構想し得ないのではなかろうか。