雨雲
(Nov. 18/2007)
政権が変わってしまった今となっては、いささか古い話になる。同じ日の新聞に、まったく別々の、しかし相互に深く結びついているような記事が載っていて、そのことがどうしても頭から離れないので、書くことにする。
一つ目の記事は、2009年から導入される教員免許の更新制について、もう一つはe-ラーニングについてのものだ。2つの記事はそれぞれ別個のもので、お互いがまったく無関係のものとして掲載されていた。
だが、私の目にはそのどちらもが、これからの大学のあり方についての重たい空気と結びついているように映る。強いて喩えれば「西の空に見える黒雲」のようなもので、彼方ではすでに降り始めているであろう雨雲なのだが、早晩こちらにも大雨を降らせそうな予感がするのだ。予報はズバリ「大雨」である。
教員免許更新制とは、教師に対して10年ごとに20〜30時間の研修を受けさせ、著しく能力が劣るとされる教員が発見された場合には免許の再交付を拒否できる、という制度らしい。こうした制度が作られる背景には、社会における教師の教育能力にたいする不信がある、とするのが一般的だ。
なるほど、私が小中学生だったときにも、「なんでこの人が先生になれたのか?」と首をかしげるような教師はいたし、大学にそういう「教師としてはまるで無能」な人がうじゃうじゃいるというのは一般的な常識だ。そしてそういう人が能力を向上させてくれるのであれば、研修も大いに結構と思いたい。
世間ではしかし、研修を受けたと言って教師の能力は向上しない、と考える人が多いのもまた事実である。20時間〜30時間という膨大な時間を使ってどんな研修を用意するのか知らないが、もしそれが「講義」と「レポート」によるものであれば、まるで意味を持たないと私も思う。
その教師が授業を運営する能力があるかどうかは、教室を常時オープンにして授業参観すれば分かることである。こんな簡単なことはない。(もちろん、参観する側がまともな評価能力を持つと仮定してだ)。
ところが、困ったことに教師の能力は授業だけでは判断できないのである。そもそも「著しく能力に欠ける」の指標が分からない(文科省はすでに公表しているのかもしれないが、私は知らない)。そこにはたとえば、「人の目を見て話せる」とか「崩壊した学級を制圧できる」とか、そういうのが入っているのだろうか?
そもそも教師、とりわけ小中高の教師は本来の仕事以上の重責を担いすぎている。教師の仕事は学校における学業の指導であって、けっして人生の師となることではない。「金八先生」はいいドラマだと思うが、あれが「あるべき先生」だと思ったら凡百の教師が可哀相だ。金八先生は、見たところあまり委員会活動もしていないみたいだし、ワーキンググループやら書類作成やらに精を出しているようにも見えない。だいたい、授業の準備をちゃんとやっているかどうかすら疑問である。学校教師が人間を育てる、あるいは生徒の人生に何らかの影響を与える面は否定しないが、それは結果であって、「先生のあり方が生徒の人生を決める」、だから「教師は聖職なのだ。教室のなかのすべてに責任を持つべし」という言い方は脅迫以外の何物でもない、というのが私の考えである。
だから、私語を止めず、授業を聞こうともしない生徒には「うちに帰れ」くらい言っても問題はない。その生徒は授業の妨害行為を継続しようとしているのだから、「うちに帰れ」は迷惑行為の排除として正当化できる。「それは生徒の学ぶ権利を剥奪する行為だ」とブーたれる輩がいてもビビる必要はない。そもそもその生徒が「学ぶ権利」を放棄しているのだから。もしその後二度と学校に来なくなっても気にしなくて良い。子供に9年間の義務教育を受けさせるのは「親の義務」だからだ。
ましてや高校や大学なんて……。(だから私は高校を辞めて自由になったわけだ。私が高校を辞めたことについては、親にも教師にも責任はない。)
教員免許の更新と教育能力の向上に、どのような因果関係が設定されているのかは分からない。だが、至極個人的な意見を書かせてもらえば、教員の能力向上への特効薬は「長期の研究休暇」である。
e -ラーニングについても、私はネガティブな感覚を捨てられない。e-ラーニングは要するにコンピューターを介した通信学習環境のことである。テキストのページめくりをネットを介してやるもんだとイメージすればよい。利点は、例えば「講義時間に縛られずに学習できる」、「学校まで通わなくても良い」などである。ああ、やっぱり通信教育だ。
こういう学習環境が有効に働くのは、しかし、資格試験とか大学受験までであって、それより高等な教育機関、たとえば大学では、かえって教育の質を落とすことにならないかと不安になる。e- ラーニングのコンテンツはあらかじめ用意されたものであり、その範囲を逸脱する可能性はゼロだ。大学でも教養課程の一部科目ではe-ラーニングを導入できるだろうが、こんな環境で受ける講義はあんまり面白くないだろう。一単元を習得し、テストを受けて合格したら次の単元の制覇にかかる。なんだかその度に「一面クリア」っていう雄叫びが聞こえてきそうだ。
教員免許更新制とe-ラーニングのどこに共通点があるのか。
教員免許の更新には、一定時間の研修が必要だとされる。それはクリアすれば免許は更新される。e-ラーニングは所定の単元をこなして、テストなりレポートなりをクリアすれば単位が認定される。どちらも「用意された関門をクリアすればOK」なのである。
ある定められた見込みに基づいて、予定されたものをクリアすれば大丈夫。あるいは「あらゆるものに実現可能な見込みを求める」というプロジェクト病。
プロジェクトは「投影」だ。光が投げられた範囲、見通せる明るみしか見ないような病が、研究や教育の世界を蝕んでいる。結果につながる見込みがなければ予算が動かないという、市場原理という雨雲が西の空に見える。経済人類学を講じるとき私は、市場原理以外の多様な「合理性」が世界に存在することを学生たちに伝えるが、肝心の大学(を初めとした教育制度)そのものが市場経済という合理性だけを選び取っているのが現実だ。
おや、こちらはポツポツ降り出したぞ。こう暗くちゃ、灯りをともそうにも何にも見えないなぁ。傘の持ち合わせもないし。
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