研究には時間がかかる
(June 03/2008)
Talk54で「研究には金がかかる」と題して発表したのは2004年の4月のことで、あれからもう4年も経ってしまった。当時はまだ就職する前で、研究費などというものを手に入れていないばかりか、それを申請する資格すら失している状態だったから、あの時と比べれば今はずいぶんと恵まれているのだと感慨しきりである。
今年はとくに恵まれている、科学研究費補助金の申請が今年はじめて通った。それほど大きな金額ではないが、いままでやろうと思っていても出来なかったことが出来る。具体的には分析に必要なソフトウェアが買えるし、そのためのコンピューターも新調できる。
仲間といっしょに申請していた共同研究も申請が認められて、それなりのお金が得られることになった。研究資金の面ではさらに余裕が出てきたので、去年までのような「ああ、もう研究なんてやめちまおう」的なやけっぱちな気分からはひとまず脱した。
さて、この状況が何をもたらすか。エチオピアには行きやすくなったし、必要な資材や資料も手に入れやすくなった。だがこれも所詮「お金の話」である。資金が得られたということは、そのための成果をしっかり生み出す義務を生じる。もちろんそのためには、研究に従事できるだけの時間が必要だし、その結果を発表するための論文を書く時間も必要となる。
そんな時間はどうやったら手にはいるのだろう?
「研究には金がかかる」を書いていた頃の私は、昼間は大学の非常勤講師として教え、夜は塾の準社員として教える日々を送っていて、研究からはほど遠い日々を送っていた。研究的に刺激のある環境にいたわけでもないから、気分的には「研究頑張ろう」ってな感じではなかった。その不満を、とりあえず「金がない」ということに象徴させて書いていたわけである。
いまはどうだ。ゼミや講義に追われ、その他の「カウントされない仕事」に忙殺されている始末である。忙しいが故にそれなりに充実しているが、研究そのものにはほとんど関われないでいる。自分が研究者である、というアイデンティティを保てるのは、かろうじて維持されている仲間の研究者とのネットワークと、学会の運営に携わっていることと、そして、研究費が得られているという事実によっている。
論文を書こうと思ったら、週末の時間を使うしかない。そして、授業をどれだけこなしても、指導学生をどれだけ引き受けても、委員会をどれだけやっても、「カウントされない仕事」にどれほどの時間を割いても、それらは業績としてはほとんど評価対象にならないのだ。私が大学の業務にかけている時間で給料を割ったら、時間給はたぶん長崎に来る前よりずっと安いに違いない。(もともと、長大に来て月収が十数万円下がったのだから、この「単価下落」は間違いない。)
オレに時間をくれ。給料が上がらなくたっていいから、時間をくれ。研究費に見合うだけの時間をくれ。
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