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福井さん、これからも、よろしく

(June 04/2008)
 
 
 4月21日、土曜の朝に友人のSRさんから電話があり、福井勝義先生が亡くなったとの知らせを受けた。
 
 すでに数日前から重篤な状態であるとの知らせを受けていた。だから「おそらくこの週末あたりには」という覚悟はしていたのだけれど、親同然に慕ってきた師匠である、その知らせは私を大いに打ちのめした。
 
 長崎にいる福井先生の旧知の方々に連絡を取り、葬儀の日程を連絡。東京の知人方面にも電話連絡。TK先生が自宅まで香典を届けてくださったので、代理で届けることを約束する。
 
 急なことでもあるので、フライトとホテルをおさえるのに多少時間がかかったが、午後には長崎を発ち、夜9時には御所近くのホテルに入った。通夜の儀には間に合わなかった。
 
 夜11時に葬儀会場に足を運び、祭壇前で飲んでいた友人たちに合流。奥様に挨拶をし、焼香をし、棺の中の福井先生のお顔を拝見したら、涙が溢れて止まらなくなってしまった。
 
 もっといろいろ教えて欲しかったよ、福井さん。
 
 友人のFKさんがポツリと言う。「福井さんを、うーん、とうならせる論文を、一度くらいは書きたかった」と。
 
 私は直接の指導学生でなかったからか、よく論文を褒めてもらった。とくに2005年に『社会人類学年報』に書いた民族紛争研究レビューをいたく気に入ってくれて、福井さんはコピーを作って学会の評議会で配ったりしてたそうだ。
 
 でも、あの論文は、福井さんの研究を一部批判する内容だったんだよな。そんなのお構いなしに褒めてくれたんだから。
 
 明けて、日曜日。
 
 10時半すぎに会場へ行き、つぎつぎと訪れる知人・友人・先輩達と挨拶を交わす。そのうちの多くが、その一週間前に弘前で学会に参加していたナイル・エチオピア学会の仲間だし、さらに何人かは、いっしょに津軽三味線を聴きに行った友達だ。
 
 「先週も会ったばかりなのにな、こんなところでまた会うなんて……」と某先生がぼそっという。
 
 民博館長のM先生を葬儀会場に案内し、いくつかあった福井さんの遺影の、どれが、いつ頃、どこで撮られたものであるかについて説明申し上げる。そのなかには、今森光彦さんが撮影し、福井先生がいたく気に入っていたポートレイトもある。
 
 いろいろ説明しているうちに、また涙がこみ上げてきた。
 
 弔辞は河合雅雄先生、アディス大のエンダシャウ先生(重田先生代読)、イギリスのタートン先生(栗本先生代読)のお三方。どれを聞いても涙が止まらない。ハンカチがぐしょぐしょになった。
 
 やっと職務から解放されて、自由きままに研究を進められると思っていた矢先の出来事だった。我々も残念に思うし、福井先生もきっとそうだろう。
 
 亡くなる1ヶ月ほど前だっただろうか。福井先生は私のケータイに電話をかけてきて、私が依頼していた原稿の進み具合について話してくれた。福井先生は原稿が遅いことで有名だったけれど、私としては自分が担当しているニュースレターに是非とも福井先生の新たな出発を象徴する原稿を寄せてほしかったのだ。
 
 その原稿も、結局は書かれずじまいに終わってしまった。これまた残念なことである。
 
 もちろん、死んでしまえば「念」もへったくれもない、という唯物論者だっているだろうが、私はそういう考え方に与しない。こうして悲しんでいる私たちを、福井先生はどこかから見ているんだろう、だから残された私たち(福井チルドレン)は、きちんと仕事をしなきゃならないんだ、と思わずにはいられないのだ。
 
 そういえば、長崎に帰ってから、同僚のD先生がこんなことをおっしゃっていた。D先生は学部生の頃からの福井先生の友人だ。私が訃報を知らせたとき、D先生は沖縄に滞在中だった。
 
 「福井が死んだ晩なんだけど、やたらと気配を感じてさぁ……。たぶん京都からエチオピアに旅立つ途中に沖縄に寄って、オレの顔を見に来てくれたんだよな……」
 
 私も、そして仲間たちも、福井先生が残していった念に支えられて、そして、福井先生が残された膨大な研究成果を乗り越えて、これからもエチオピアと関わり続けるだろう。
 
 福井さん、これからも、よろしく。