歪んで見える世界
(Nov. 8/2008)
長崎大学の「環境科学部」というところに来てから、しばらくは「環境科学」っぽいことに集中した時期があった。学部のメイン講義は「環境人類学」だし、大学院では「環境人類学特講」と「環境人類学特論」だ。いきおい生態と開発に焦点を絞った授業運営をすることになる。
これはたしかに勉強になったし、そこに政治的な要素を込めたり、人類学者ならではのマイノリティ視点を込めることも可能だった。
ただ、もっともチャレンジングだったのは、「環境科学部」の他の講義科目の内容とのすりあわせである。他の授業でどの先生がどのような授業をしているのかを知ることは難しい。大学では他人の授業を見せてもらうことも、あるいは積極的に開放することもあまり歓迎されないのだ。したがって、他の先生の授業内容とのすりあわせを意図すれば、講義要項を読むしかない。
それが昨年あたりから変わってきた。
一つには学部の「異文化交流論」という講義の科目責任者になったことがある。神戸市外大でやってきた「現代文化問題特殊講義」と合わせれば、わりと得意にしてきた問題系をカバーする講義が出来るようになった。そのうえ今年から長崎県立大(シーボルトキャンパス)で新設した「現代異文化交流論」と、大学院の「異文化共存論特講」が加わった(従来やってきた環境人類学特講は新任の先生にお任せした)。
さらにいえば今年から、大学院前期課程(修士課程)を移籍して、国際健康開発研究科の専任教員になったので、海外で本格活動する予備軍にも教えることになった。
つまりいまの私は「カンキョーカンキョー言わなくてもいい」、そんな立場になったのだ。
どのような授業でも、こういう「異文化交流系」授業では基本的に押さえるべきことは決まっている。世界システムと、植民地主義・帝国主義、冷戦、ポストコロニアル状況……。問題は結局「世界はなぜこれほど歪んで見えるのか」ということに尽きる。どんな授業をやっても、結局はここに立ち返ってくるしかない。
そして、こういう「歪んでみえる世界」を見る視点を身につけることが、「環境科学」を語るときに絶対に必要なのだということも、この1年ではっきりと認識した。このことを物質系環境科学(つまり理系)の先生たちに説得的に示すことがどれほど大事かということも、明瞭に認識している。これから考えなければならないのは、そういう問題系を万人に分かる言葉に翻訳すること、そして、それを物質系の問題系ときちんとリンクさせる作業である。
日本中、いや世界中の「文理融合系教育研究機関」で働く文系研究者は、みなこの問題を共有していると思いたい。
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