レスポンス・ペーパーの書き方を教えてあげよう
(Nov.8/2003)
大学での授業は基本的に90分である。私の場合、ほぼ時間通りに教室に入り、配布物(通常2種類)が全員に行き渡るのに5分、その間に遅れて入ってくる連中が(まさに続々と連なって入ってくる)やれオレの分がないの、やれ出席票はどこですかだのといった混乱状態が数分あって、それからやっとこさ講義がはじまる。最近は私がマイクを持ってからの、学生たちのスタンバイが素早くなったが、これも半年の躾があってこそである。本当に、大学生をドメスティケイトするのは時間がかかる。
授業はおおむね定刻の10分前には切り上げるようにしている。そうしないと、学生たちがレスポンス・ペーパーを書く時間が取れないのである。このレスポンス・ペーパーというのは、そのまま学生たちの「反応」を見るためのものだが、学生個人個人によってその受け取り方は異なるようだ。大多数の学生にとって、これは単なる重荷だろう。とくに関心があるわけでもなく、興味もわかない内容を延々一時間以上にわたって聴かされたあげく、それに対するレスポンスを求められるのであるから、苦痛以外のなにものでもない。彼らにしてみれば、「出席した」という事実だけを主張できればいいのであるから、それも宜なるかなである。
だが、私はそんな甘っちょろい態度は認めないのである。とにかく書かせる。書くことがないなら無理やり作り出せばいいのである。授業が終わってから、「さて、何を書いたらいいものやら」と途方に暮れてノートやハンドアウトをめくっている学生をよく目にするが、私の話を聞きながらそれに対して、その都度レスポンスを作り出していけばいいだけの話である。どんなふうにしてもレスポンス=反応が導き出せないという学生は、触媒となるだけの知識や知的活動が無いか、あるいは何も聴いていなかったかのどちらかであろう。学問には向き不向きがあって、レスポンス・ペーパーに何も書けないような学生は、やっぱり「不向き」なんである。
以上のようなことは、とにかく「書く」ことのみが至上命題となっている学生にあてはまることである。彼らにとっては、書くか書かないかが問題であって、内容は二の次となる。その一方で、レスポンス・ペーパーの内容を充実させようと頑張っている学生もたくさんいる。ある学生さんは、メールのやりとりのなかで、自分たちの興味関心のありかや理解度がたちどころにばれてしまうのでレスポンス・ペーパーは脅威だったと言っていた。彼女は非常に熱心に受講していたし、毎回きちんとしたペーパーを提出した学生である。こういう人たちは、大学に通って授業を受けるというのがどういうことか、ちゃんとわかっているし、そのために何をするべきかが自覚できている。こういう学生のレスポンス・ペーパーは、読んでいて気持ちがいい。
レスポンス・ペーパーを読みとおすのは骨折り仕事である。私はまず、帰りの電車のなかでそれを読みながら出席をつける。数百人分ともなるとつい読むのをさぼりがちだ。だが、いちど遅らせるとあとは根雪のように未読分がたまっていくのが目に見えているので、なるべく一週間以内にぜんぶ読み切るよう自分にプレッシャーをかけるようにしている。
大量のレスポンス・ペーパーを読むのにはコツがある。
まず私は一目見てそれを"passive response"と"active response"のどちらかに分類する。"passive" であればサラリとみて終わり、"active"であればじっくり読む。"passive"とは文字通り「受け身の反応」であり、具体的には「○○を初めて知りました」や「××なんて驚きました」なんていう、要するに中学生でもかける「感想」である。積極的意義を感じないという意味では、「無反応の反応」とでもいえようか。こういうのを見ると、「あ、一応その部分は聴いていたのね」とつれなくつぶやくしかない。
大半の学生のレスポンスは"passive"であり、これは受講態度が"passive"であることを意味する、とひとまずしておこう。もちろんちゃんと聞いていたというそのこと自体は評価する。
対して"active"の方はいろいろあって面白い。たとえば講義内容を補完する新しい事例が取り上げられていたり、講義内容に新たな解釈を試みたり(かなり強引なのも多いが)、痛烈な反論があったり、私の解釈に疑義が提出されたり(まあ、たいていは他愛もないが)、自分の体験にひきよせた新たな理解への感動がつづられていたり、あるいは異なる学問分野との接合が試みられていたり、まあ様々である。レベルの高い低いはあるが、どれも読むに足る(good to read)ものである。
"active response"を導くためには、講義を聴きながらつねに頭の中をフル回転させておかなくてはならないだろう。たとえば私があることにたいする解釈(1)を提示したとして、それを聴いたら「そんなわけないでしょ増田先生。こうじゃないんですか、…(以下、独自の解釈(2))…」といったふうに、つねに頭の中でツッコミをいれながら聴くのである。本を読むときには、このようなツッコミを入れながら読むのと、ただ漫然と文字情報を追っていくのとでは、「読み」の質はまるで違ったものになる。そしてツッコミを入れるには、知識や学力、人間性といったものを含んだ総合的な「知性」が必要となるのである。私自身はそうした知性に欠ける人間なので偉そうなことは言えないのだが、どんな大学でもそういった知性を備えた学生は一定の割合いるというのが、私の経験則である。ちなみに一定の割合とは、だいたい3〜5%の間である。
短い時間に筋の通った文章をまとめるという訓練は絶対に必要である。本来ならば、大学に入学した時点でその手の能力は身に付けていてしかるべきなのだが、実態は散々なものだ。おそらく大学1年生で、私が「これはまともだ」と認められる文章を書ける学生は、1割に満たないだろう。文章力の訓練など、文化人類学の守備範囲ではないが、しかたあるまい。こうやって訓練しておかないと、肝心の期末試験で破壊的な文章に悩まさせる羽目になる。大半の大学生が書く文章の「めちゃくちゃさ」加減についてはいずれ詳しく書こうと思っている。とにかくすごいのだ。読んでいるこちらの脳みそに、ウィルスを送り込んでくるような文章がこの世に存在するのだということを思い知らされるのである。
ところで、毎回のように多くの学生がつかう表現がある。レスポンス・ペーパーにかならず一定数見られるその表現とは「疑問」である。たとえばこのようなものだ。おそらく文化の違いがどうのこうのという話の脈絡からでてきたコメントであろう。「日本では犬はペットとして飼われますが、中国では食用に飼われます。このような違いが生まれることに疑問を感じました」。断っておくが、これは実際にレスポンス・ペーパーに書かれていたものをそのまま引用したのだし、これは氷山の一角に過ぎない。犬は日本ではペットだが、中国では食用だ。この辺はまだわかる。だが、このような違いが生まれることに「疑問を感じる」とはどういう意味か。
じつは、大学生の間では、私に「質問」したいとか、「何故だろうと不思議に思う」とか、そういうことはすべて「疑問」という言葉に吸収されているらしいのだ。「クランとリネージの違いに疑問を感じた」とか、「なぜ地球上に母系社会がすくないのか、疑問に思う」とか、そんなものを毎週読ませられてみなさい。自分がいつもいつも、みんなに疑問を抱かせるようなことを話しているかのような、そしてそれを難詰されているかのような、そんな被害妄想に取り憑かれるから。もちろん今の私はだいぶタフになったので、上の2つも、「クランとリネージの違いがわかりません」「なぜ地球上に母系社会が少ないのか不思議です」程度の内容なのだと、頭のなかで解読しながら読むことができるようになった。彼らが言う「疑問に感じる」は、たとえば「このデフレの時代に、モス・バーガーがコーヒーの単価を30円値上げすることには疑問を感じざるを得ない」といった「疑問」とは根本的に異なる。
学生さんたちには、こう言っておきたい。レスポンス・ペーパーを書くのは面倒だろうが、無駄ではない。遅刻せずに教室に入り、脳をフル稼働させながら話を聞き、レスポンス・ペーパーでアクションを起こす。ここまでが「1コマ」である。「出席なんかとるんじゃねえよ、適当に単位くれりゃいいじゃねえかよ」とお思いの方、あなたは誤解しています。あなたは大学に授業料を払うことで単位を買っているのではありません。あなたが買っているのは単位を手にする権利だけです。
(上記の内容については、これまでも講義中に話したことがありますが、この場を借りてまとめておきました。また、後期にはいって、全体的なレスポンス・ペーパーの質はぐんと上がっています。これからも頑張ってください。)
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