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犠牲者を英霊化する発想[続]

(Dec.7/2003)


この一週間、Talk25「犠牲者を英霊化する発想」で書いたことが、あたかも予言であったかのように、事態は進んでいる。死には物語が必要だ。現代の日本で、事件的な死はメディアによって物語化される。そこに国家がからめば、いきおい愛国心や使命感、そして同胞意識の物語となりやすいのはいうまでもない。

外務省は今回の事件を受けて、殺された奥参事官と井ノ上3等書記官の2階級特進を決定した。奥氏の場合は参事官→公使→大使と昇進し、井ノ上氏の場合は3等 →2等→1等と昇進した。外務省はこの特進のためにわざわざ内規をあらためて、2人の死亡日までさかのぼって昇進させたという。世間では外務省の身内贔屓などといわれているようだが、危険地での任務でもあったし(そのかわり在外勤務手当などは良かっただろうが)、家族の今後の生活もかかっているので、この件については私もとやかく言うまい。

マスメディアが伝えるところでは、ふたりとも仕事熱心で、イラク復興に情熱を傾けていたという。だからあちこちで言われている「志半ばの不幸な出来事」というのも本当だろうし、私個人としても2人の死には同情を禁じ得ない。だが、その周辺で展開される事態の推移には辟易させられる。

今回の事件被害者を「犠牲者」と呼ぶこともそのひとつだ。「犠牲」とはつまり、神なりなんなりへの「捧げもの」として殺される生け贄のことであり、この言葉を使っていることは、事件がある意味でイラク復興という「絶対」への供儀であったと捉えられている可能性がある。もしそうなら、対価としての「復興」を引き出すために「国際貢献」をしなければならないという使命感がわき起こるのも当然だろう。以前も書いたとおり、このことは防衛庁や首相官邸にとっては悪い筋書きではない。

6日に行われた2人の葬儀にも同じことがいえる。葬儀は奥、井ノ上両家と外務省が合同で行ったことになっている。参列者が1500人を超えた大規模な葬儀であり、外務省ひいては国家の全面的なバックアップなくしては成立しにくい。参加者には小泉首相をはじめ国会関係者、各国の大使館員などが名を連ね、これだけでもこの葬儀が、それぞれの個人的な死を悼む儀式としてよりは、むしろ国家をあげてのスペクタクルとして演出されたような胡散臭さがともなう。お二人の家族が、こういう葬儀の企画をよろこんで受け入れたのだろうか?

小泉首相は時おり声を詰まらせながら「哀悼の意」を読み上げたそうである。残念ながら私の手元にはその要旨しかないが、その論旨は「凶悪犯罪への憤り」→ 「奥氏の使命感への共感」→「井ノ上氏の将来性への哀惜」→「日本政府の抱負」といったように進んでいったようである。テレビのニュースでは以下のところのみが引用されていた。

「お2人ともご家族の誇りであると同時に、日本国、日本国民の誇りでもあります。私たちはあなたたちの熱い思いと、功績を決して忘れません。これからも日本政府は、あなたがたの遺志を受け継ぎ、国際社会と協力して、イラクの復興に取り組んで参ります」

ここで2人の仕事に対する個人的な情熱は、日本国民の誇りに変換され、そして残された人々は彼らの「遺志」を継ぐべきだという使命感が示されるに至るのである。葬儀に先立って、奥克彦氏には従四位旭日中綬章が、井ノ上正盛氏には従七位旭日が、そして運転手だったジョルジース・スライマン・ズーラ氏には旭日単光章が、それぞれ授与されたという。旭日章は「国家又は公共に対し功労のある人物」で「とくに顕著な功績を挙げた者」に贈られる賞である。全部で6つのランクに分けられた旭日章のうち、中綬章は3番目、双光章は5番目、単光章は6番目に位置する。二人の仕事と、そして「犠牲」としての役割は、国家=政府によってお墨付きを得たのである。

ちょうど今、私は大貫恵美子の『ねじ曲げられた桜:美意識と軍国主義』(岩波書店)を読んでいるところだ。なかなかに手強い本で、久しぶりに鉛筆片手に読んでいる。400ページを超える本文のうち、まだ60ページしか読み進んでいないが、それでもいくつかの事柄がクリアーになった。たとえば特攻隊の青年たちにとっては、天皇崇拝と愛国心とは必ずしも一致するものではない、ということが書いてあって、言われてみれば確かにそうだ。そういう厳密さを持った本というのは、注意深く読んでいかないといけないのだが、同時に、しっかり読めば視界が開けてくる可能性を持っている。911以降のアメリカにおいて、愛国心と民主主義擁護とは必ずしも重ならないし、ましてや「悪の枢軸を一掃すること」が愛国の証だなどと考えるのは愚かなことである。おなじ理由で、イラクという、長年にわたって独裁者によって理不尽な支配を受けてきた国家において、その復興事業に全力を傾けるということと、それを日本国民が一丸となって支援することとは、また別である。ちょうどこの事件の進展と重なった時期に、大学で「死」についての講義をしたこともあって、個人の死があらゆる回路を伝って「ねじ曲げられ」ていくような有様に、我慢ができないでいる。