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卒業生たち

(Mar.19/2004)

横浜の、とある海辺の公園でバーベキューパーティーをやった。高校生たちの卒業を祝うパーティーだった。強風が吹き荒れ、埃が舞い、海には白波がたち、私は右手に軽いやけどを負ったが、バーベキュー自体は大成功だったと思う。

当日の朝、まずガソリンスタンドで洗車をした。数日前にちらついた雪のおかげで、あずき色をしたわが家のクルマがすっかり汚れていたからだ。スタンドに向かうまで、車内で流していたFM横浜では、「卒業特集! あなたの思い出の卒業ソング・ベストテン」なるものがかかっていた。斉藤由貴の「卒業」なんて、このまえ聞いたのはいつだったろう。

思えば、これまで何千人という生徒・学生が私の前を通り過ぎていった。私は人の顔かたちや振る舞い、エピソードなどは、かなりよく覚えていられるのだが、肝心の「名前」をすぐに忘れてしまうので、いまでもときどき過去の人びとを思い出しては、名前が思い出せずに歯がゆい思いをすることが度々だ。(だから皆さん、私があなたの名前を忘れていても怒らないでくださいね。あなたのことはちゃんと覚えてますから。)

「教える」という仕事に手を染めたのは、大学1年生の時だった。中学生の時に通っていた塾の先生に声をかけてもらったのが最初で、以来、塾というか予備校というか、そういうところで「教える」という仕事をずっとやってきた。大学で教えるようになってからすでに6年経っているから、そう考えると、この15年間で、エチオピアに行ったりしていた何年かをのぞけば、ほとんどの時間を「教える」ことに費やしてきたといってもいい。それだけ目の前を通過していった生徒の数は多くなる。はじめて塾で教えた生徒は、もう30代に入っている。いまどこで何をしているか、一人としてその行方を知らない。

さっきも書いたように、私はすぐに人の名前を忘れるのだ。そしてもちろん、時間が経てば記憶はうすれてゆく。かつて教えた学生たちと卒業後も連絡を取り合うということはほとんどない。教師と生徒の関係というのは一生の間のつかの間を、お互いにするっと通り過ぎる関係にすぎないのだ。私はこれまで教わった担任の先生たち、それこそ幼稚園以来の先生たちのことを(名前は別として)結構覚えているが、塾の先生とか、大学の一般教養の先生となると、さすがに記憶がぼやけてくるのは仕方がない。私ははたして、学生たちの記憶に残るような教師たり得ているだろうか。

さて、非常勤講師でありながら、1年から4年までずっとつきあいがあって、卒業まで見届けた学生がほんの少数だが、いる。一昨年は玉川大学で女の子ふたりを見送った。この子たちは、私が授業で紹介した「トウモロコシでビールを造る」というのに関心を持ってくれて、3人でビール・プロジェクト(というほど大げさなものでないけれど)を立ち上げたのだった。

今年も青学でひとり、1年から4年まで授業に来てくれた人が卒業する。自分があれこれ指導したわけでもないのに、なんだか自分の学生が巣立っていくような気分だ。

そういう私も、今年度をもって横浜美術短期大学の非常勤を辞することになった。忙しくて余裕がなくなってしまったからだ。ここは絵画とか造形とかグラフィックデザインとか、そういった分野を専門的に教える短大で、ちょっと前まではトキワ松学園横浜女子美術短期大学という長い名前の学校だった。

トキワ松(と、呼んだ方がしっくりする)は、私がいま教えている他の大学とは比較にならないほどこぢんまりした学校で、職員の方々はみな本当に親切だった。はじめてそこを訪れたのは1998年の9月で、エチオピアから帰国してほんの数日しか経っていなかった。塾で教える経験は豊富でも、短大生に教えるというのが初めてだった私は、珍しく緊張していたように思う。それが証拠に、この日私は、黄色い半袖のシャツに、明るいブルーのネクタイを締めていったのである。最初の年に教えた学生さんたちは、もう20代の後半に入っているはずだ。

毎年半年かぎりとはいえ、まるで分野の違う人たちに文化人類学の講義をするというのは、私としてはかなりチャレンジングなことだった。おかげで相当鍛えられたと思う。トキワ松での修行を終えて、私はその講義を後任に託した。さらば、トキワ松。