非常勤講師稼業について考えてみよう
(Sep.14/2003)
9月に入って猛烈な残暑に見舞われている。先月の夏休み中はこの暑さが恋しかったはずなのだが、こうも続くとさすがに「もう結構」といいたくなる。なにしろ午前9時頃には、暑くてベッドに入っていられない。そのくせ、ついこの間まで目覚まし代わりだったセミの声が聞こえないのだ。暑いのに、空気はわりと乾いている。「暑さ」という感覚と、「セミの声」という音声は、お互いが記号表現であり記号内容であったはずだ。いったいどうなっているのだろう。
なんとなくいらだっているのは、この暑さのおかげで仕事がはかどらないからだ。今月末からあちこちの大学で後期の授業がはじまるので、その準備をしなければならないし、来週には神戸で集中講義をする約束になっているのだ。それ以外にも大事な書類を作成する仕事があり、毎日の定例の仕事もこなさなければならない。本当は1日が24時間では不足なのだが、それにも関わらず暑さのせいで仕事に身が入らない。
神戸の某大学の集中講義は、去年の年度末ぎりぎりに舞い込んできた話だった。これはかなり異例である。この程度の内幕話は書いても差し支えないだろうが、ふつう、大学の翌年度のカリキュラムは秋頃に調整を行う。私のような万年非常勤講師にも、早いところでは8月(←これはちょっと早すぎだよ。まるで青田刈り)、たいていは10月に「来年度も担当していただけますか?」という問い合わせが来る。やる気と時間があれば「やる」と答えるし、なければ断る。
大学の非常勤講師には、私のみるところ2種類あるようだ。ひとつは「どうしてもこの先生に来てほしい。是非とも」とお願いして来てもらう非常勤(著名な先生を「お招き」する場合)と、誰でもいいからこのコマを埋めてくれる人求む、という事情から依頼する非常勤の2種類だ。私の場合は、「文化人類学の担当がいなくて困っているので誰か紹介してください」という話が巡りめぐって、私のところに流れ着く場合がほとんど(というより、全て)なので、明らかに後者になる。誤解の無いように付け加えると、どのケースでも履歴書と研究業績はちゃんと審査されるし、どこの大学もとても誠実に対応してくださる。だからここで私は、それぞれの大学に苦言を呈したいわけではない。
ただ、ここからが本当にいいたいことなのだが、結局のところ非常勤講師として雇用されるということが、「そこに穴があるから埋める」という形であることには変わりはない。某大学の文化人類学の担当が「私」であるのは巡り合わせであって、「私」でなければならなかった理由はないのだ。個々の大学の事情は私には知る由もないが、文部科学省からクレームをつけられない形で用意されたカリキュラムに「文化人類学」という科目があれば、そこには担当者がいなければならず、もしその「穴」を埋める人間が見つからないようなことがあれば、たぶん大学にとっては致命的なミスということになるのだろう。だから3月末という極限の年度末に、「穴」を埋めるための担当者探しに奔走された方々は、本当に苦労されただろうと思う。
私のような専業非常勤講師は、こういうときに融通が利く。近年、各大学で専任教員の雇用を控える動きがあるといわれるが、その結果として専業非常勤が増え、かえってカリキュラムの編成には柔軟さが備わってきたのではないかと邪推すると、世の不条理を感じざるを得ない。いやはや、日本の大学は非常勤講師がいなければにっちもさっちもいかない。とくに語学に関してはそうだろう。家族を養うために、週に15コマ以上担当する人もざらにいると聞く。私だって、大学以外での「民間」(ヘンな言い方だが、大学が世間離れしているとすれば、大学以外の世界を「民間」と呼んでも差し支えあるまい)での授業も含めると、だいたい週に24時間授業を展開していることになる。非常勤にはボーナスがない。健康保険や失業保険の手当てもない。金額の高い国民健康保険に加入するしかないし、年金は「あの」国民年金である。
話が逸れた。とにかく来週は神戸で「アフリカの文化問題」について4日間の集中講義をする。準備はまだ中途だが、こちらはプロ根性でもって完遂する覚悟である。たとえペイが安くても、「穴埋め」でしかなくても、ね。
前のページへ