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研究には金がかかる

(Apr. 15/2004)


佐野眞一の『旅する巨人:宮本常一と渋沢敬三』という本を読んだ。宮本常一は現場主義に徹した著名な民俗学者、渋沢敬三は日銀総裁も務めた銀行家で、民俗学(民族学)に造詣の深かった学会のパトロンである。この本はサントリー学芸賞を授賞しているが、なるほどよく調べられていて、しかも面白い。だが私にとっての面白さは、一般的にこの本が面白いとされるのとはすこし違っているかもしれない。ひとことでいえば、日本で人類学者として活動する私自身にかかわる「系譜」のようなものがひしひしと感じられたのだ。

私は成城大学の文芸学部文化史学科というところで学部時代を過ごしたが、ここはこの本でも再三登場する柳田国男とふかく結びついたところだ。私の指導教官は柳田と関係があったし、卒論の副査にあたった教授は、柳田の元助手だった。成城大学では私は、何度か柳田の蔵書を手にとって見ることがあった。大学院は東京都立大学だったが、ここは『旅する巨人』にわりと「悪役」として描かれている岡正雄が関与した学科だ。岡と柳田のあいだにも関係はあり、私はここでも柳田の影に触れていたわけだ。

98年3月に東京都立大学を出た私は、財団法人民族学振興会というところの無給研究員として肩書きだけをもらったが、この財団に基金を出したのは渋沢敬三である。民族学振興会が1999年半ばに解散してからは、神奈川大学の日本常民文化研究所に籍を移したが、ここは渋沢の私設博物館「アチック・ミュージアム」を引き継いだ組織だ。まったくすごいものである。私は柳田国男にも渋沢敬三にも会ったことはないが、一生、こうした「巨人たち」の間接的な影響を逃れられないのではないかと思ってしまう。

その点から行くと、宮本常一の影というのはあまり強くない気がする。もちろんそのことは、宮本の業績の素晴らしさを減じるものではない。実際、宮本の著作からはいまでも多くのことを学ぶことができる。宮本は長い間、いわゆる「在野の研究者」だった。その研究活動を支えたのは渋沢敬三というお金持ちである。いまならこういうのはさしずめメセナと呼ばれるだろう。だが、渋沢の場合はほんとうに民俗学に関心があったのであり、自分の興味を満たし、学問の発展を心から願って私財を投じたという点では、今日的なメセナとはちょっと違う気がする。

ところで、『旅する巨人』という著作から私が感じたことは、そうした「系譜」的なことだけではない。非常に卑俗な教訓も引き出した。それは「金がなけりゃ研究はできない」ということだ。貧乏な宮本常一が膨大な著作を残せたのは、宮本の才能と行動力を見こんだ渋沢が、資金援助を惜しまなかったからである。

研究には金がかかる。人類学者の場合、もっとも金がかかるのがフィールドワークだ。私だったら、まず成田からエチオピアまでのフライトに往復20万円かかる。首都アディスアベバでの滞在費、大学に払う登録料、国内の交通費、食費、資料の購入費、機材費などなど、一回のフィールド行だけで結構な金額が必要となる。皮肉なのは、フィールド行のなかでもっとも安く上がるのがバンナの村にいるときだということだろう。この点、ヨーロッパあたりで研究される方々とは事情が異なる。

フィールドワークにかかる金は、私の場合は幸運にも科学研究費というのでまかなってもらえてきた。いまも京都大学のプロジェクトの仲間に入れてもらっているし、希望すればバンナに行くことも可能なのだが、いかんせんまとまった時間が取れず、もう3年もバンナには行っていない。ちなみに「まとまった時間」とは短くても1ヶ月をさす。一週間ではボリ村までたどり着けない。

研究者には文部科学省からのものを含め、いくつもの研究費獲得のチャンスが開かれている。大学の先生たちは誰でも、授業をしたり、原稿を書いたり、会議をしたり、そういうことをしていないときは資金獲得のための申請書を書いて過ごしている。私も含めて多くの研究者は、お金持ちの子弟でもなんでもないので、こうした助成金無しでは研究を進められない。理系ならなおさらで、ひとつの研究プロジェクトで億単位の金が動くという。それにくらべると、われわれ文系学者は多くてもひとり数百万だから、安上がりといえば安上がりである。そのかわり経済的な見返りが期待できないので、研究費の獲得は至難を極める。私のようなダメ研究者で、これといった実績も才能も感じられない人間に研究費を出すところなどない。これまでいろいろな助成金を申請したが、パスしたのは一度だけ、文部省(当時)の科学研究費で2年間で80万円もらっただけだ。これも海外での学会出張であらかた使ってしまい、本を数冊買ったら底をついてしまった。その科学研究費、いまは申請する資格すらない(文部科学省関係のお金を申請できるのは、ちゃんとした身分があって、研究者番号というのをもらっている人だけなのだ)。

大学院生くらいだと、学術振興会特別研究員という輝ける道もある。働かず、研究三昧の日々を送るだけで、毎月30万円以上(いまなら40万を超えるだろうか)が数年にわたってもらえる資格である。もちろん競争率は高い。私もトライしたが、あっけなく落とされた。そのわりに、まわりにはこの研究費をもらっている人が何人もいる。こういうのを見ると、私って本当にダメなのね、と思うしかない。そう、私は、まともな研究計画すら書けない人間なんである。

これに関しては「学振スパイラル」という言葉がある。学振の研究費をもらえれば研究に専念でき、博士論文も短期間で書き上げられるが、学振に落とされると生活に追われ研究がまったく進まないということだ。私の場合は研究を怠けたうえに仕事に精を出してしまったせいで、あきらかに学振的な下降スパイラルに落ち込んでしまった。ところが、学振のお金をもらっておきながら論文も書かずに3年間をすごす輩もおり、これは実にけしからんと思う。研究のペースは人によって異なるから、立て続けに論文を発表する人もいれば、そうでない人もいるのはわかる。だが研究するだけで年収500万ももらっていながら、論文をひとつも発表しないとは何事か。

研究だけに専念する人生を送るためには、おそらく以下のような条件を満たす必要があるだろう。

(1)  実家が裕福で、バイトをしたり奨学金をもらったりしなくても生活できる人。できれば親と同居しているのが望ましい。お金のことはもちろんだが、バイトなどで時間が取られると、たとえばまとまった調査に出かけられなかったりする。また親と同居していれば、生活のあれこれに気力をそがれなくていい。

(2)  配偶者が働いてくれていて、その収入で生きていけるという人。大学の先生方(男性)のなかには、就職するまでのあいだ女房に食わせてもらった、という人が結構いる。おかげで家庭内での権力関係がばっちり決まってしまうらしいが、ひとまず学生生活を、「生活の心配」無しで過ごせるのだから、いいじゃん。

(3) お金持ちのパトロンをつかまえて、面倒を見てもらう。(パパでも、マダムでも、社長でもなんでも、お金のある人に見こまれる必要がある。)

ちなみに私は上のどれにも該当しない。

私のところには、大学院進学希望者がときどき訪れる。実際に進学を決めた人もいるし、あきらめた人もいる。だが、こういう人たちにはお金のことをよくよく覚悟するように言っている。「あなたのうちは金持ちか?」なんて不躾なことまで聞くことすらある。日本経済が将来的に高度成長期を迎える可能性は限りなく低い。だから企業の積極的な資金提供や、大金持ちのパトロンはますます頼りにならなくなっている。だいたい文系の学問に理解をしめす経営者などほとんどいないだろう。そういう中で「研究する人生」を選ぶには、資力が十分にあるとか、だれもが認める才能を持っているとか、そうういう条件が求められるのだ。私など、あきらかに選択を誤ったといえるが、幸いにしてこれまでなんとか生き残れた。でも、いつまで研究者なんて肩書きを保持できるか、大変に悲観的である。そう、研究には金がかかるのだ。カネも時間もない私には、ときどき、研究者廃業の足音が聞こえるような気がする。空耳だといいけど。