健康を診断する
(Oct.03/2003)
もう先月のことなのだが、とある事情にせまられて健康診断をうけた。記憶にある限り、健康診断は6年ぶりである。前回、非常勤講師には健康保険の手当てもないと書いたけれど、健康診断も受けられないのである。もちろんどの大学にだって、外部から臨時雇いしている人間の健康を診断する義務などない。だから、悪いのは大学ではなく、制度そのものにある。正規の会社員がただで受けられる健康診断が、私のような素浪人には重い負担としてのしかかってくるのだ。
6年前の健康診断は、当時準社員として勤めていた会社でのことだった。その前は、大学院に入院していた当時で、近所の総合病院で6000円かそこらをはらってやってもらった。なにせ健康診断は高くつく。今回のテーマは、なぜ健康診断は高いのか、なぜ時間がかかるのか、それにそもそも健康は診断できるのか、と盛りだくさんである。
はっきり言おう。今回の健康診断に、私は7000円ちょっとを支払った。内訳は診察料が数百円、文書料が7000円である。紙切れ一枚に汚いボールペンの殴り書きと、病院のハンコ。このセットメニューを手に入れるのに、7000円+α! これというのも、健康診断には保険がきかないからだ。こんなことは常識なのだが、国民健康保険で、同じ収入を受け取っている会社員より高い保険料を払っている私が、自己負担で健康診断を受けて、しかも保険がきかないなんてことがあっていいのだろうか。
今回は「総合病院発行の診断書」が必要だと言われたので、近場の総合病院を片っ端から当たった。折悪しく、神戸出張直前の週で、仕事がたまっている。健康診断を受けなければならないのはずいぶん前からわかっていたので、早めに手を打たなかった私が悪いのかも知れない。しかし! どこの病院でも、判で押したように「一週間から10日かかりますねえ」といわれる。横須賀市の市民病院など(ここはわりと評判のよい病院である)、予約していただいた上で一週間後に発行できます、なんておっしゃった。ちょいちょいで済む診断、ちょこちょこで済む記入、ポンで終わるハンコ押し。これに一週間って、いったいどうなっているのだ?
病院側の事情など知る由もない。ほんとに運良く、鎌倉の某総合病院が予約無しで請け負ってくれるというので、朝7時起きで出撃した。
9時過ぎ。待合室はもういっぱいである。検査項目は身長、体重、視力、聴力、血圧、レントゲン、それにツベルクリンだ。この日は受け付けを済ませてから料金を支払うまで正味5時間、その間、実際に診療にかかった時間は10分だった。二日後、ツベルクリンの結果をみてもらいに再び病院を訪れると、またまた5 時間待った末に、5分の問診。若い先生はその場で診断書に記入してくださった。どうしてこんな簡単なことをやるのに、どこの病院も「一週間から十日」なんてことを口にするのだ? やればできるのに。それとも、一週間くらい寝かせないと、診断書に味が出ないとでもいうのか?
結局、のべ10時間を待合室で過ごし、のべ15分ほどの診察を受けた結果は、「完全無欠の、純粋な健康」だった。実はひそかに心配していた「肺」のあたりにも、全く問題なし。健康そのもの。くどいようだが、その「まったく問題なし」を証明するために、10時間かけて、7000円を払ったのだ。
ところで、いわゆる健康診断で、「診断」されているのは、じつは「健康」ではない。いくつかの基準から測定され、判断されているのは実体のない「健康」などではなく、単に「身体の状況」だ。だからこれは本当は「身体状況診断」とでも呼ぶほうが的確だろう。自明な「健康」など存在しない。われわれが「健康」と呼んでいるのは、ただ単に「具合が悪くない状態」である。だから私は今回は、「具合が悪くない」ということを医師の権威によってサーティフィケイトしてもらいに行ったわけだ。
そういえば気になっているものに、「健康増進法」というのがある。例の、公衆の面前でたばこを吸ってはいけないという「公衆面前喫煙禁止法」のことだ。なんというまやかしの命名だろう。自明な健康など存在しない。健康は増やしたり、進めたり、そういうことができる物体ではないのだ。もはや「健康」は偶像である。みんな健康にひれふす。健康になる(=具合の悪化を未然に防ぐ)ためなら、あるいは健康を取り戻す(=具合の悪さを消去する)ためなら、人はなんでもする。酒を飲んだり、たばこを吸ったり、そういう健康を「減らす」ようなことをする人間は、どんどん社会の片隅に追いやられていく。
前のページへ