仮定法の世界
(Oct.11/2004)
ドラえもんの四次元ポケットから出てくるもので、一番欲しいものは何か。
私なら「そのウソほんと」か「もしもボックス」が欲しい。「そのウソほんと」は、この器具(クチバシみたいな形をしている)を身につけると、言ったことと逆のことが起きるというスグレモノだ。とにかく逆を言えばいいのである。だからたとえば、「ぼくはタケコプターを持っていない」といえば、「ぼくはタケコプターを持っている」という現実が現れるし、「ぼくはどこでもドアをもっていないから会議に遅刻する」といえば、「どこでもドア」がたちどころに現れて、余裕を持って会議室に登場できるのだ。
(ついでに書けば、「どこでもドア」が普及したら交通産業は壊滅的被害をうけ、失業者があふれることになる。そのかわり、さまざまな付加価値をつけたブランドもの「どこでもドア」が出回るのだ。据え置き型と携帯型の「ドア」が普及することになり、町中に設置された「公衆どこでもドア」が、公共交通機関の代わりをするのだ。)
かように、「そのウソほんと」は、ドラえもんが取り出すあらゆる道具を超越した、万能の道具なのである。
ところで、「そのウソほんと」という機械は、さまざまな哲学的問題を提起する。それこそ、もしもこの機械を現実のメーカー(たとえばソニーあたり)が制作するとして、クリアすべきさまざまな課題があるのだ。
根本的な問題としては、「うそ」と「ほんと」を峻別する論理回路を設計する必要がある。のび太が「しずかちゃんはぼくのお嫁さんにならない」とウソを叫んだとして、それが「ウソ」であると認識するフィルターが必要なのである。その前に、「しずかちゃん」が、のび太にとって意味のあるしずかちゃんのことであって、牛若丸の側室のことではないという知識も必要なわけだが、そのことは置く。
実際にはのび太が叫ぶ「しずかちゃんはぼくのお嫁さんにならない」はウソではない。これは「反実仮想を裏返した事態の断定(あらまほしきことの裏返し)」だ。だからある意味で、「そのウソほんと」という機械は「もしもボックス」の変種ともいえる。
「そのウソほんと」が、いわゆる現実をねじ曲げて固定化する装置であるとすれば、「もしもボックス」のほうはむしろ、シミュレーション装置といえるかもしれない。「もしもしずかちゃんがぼくのお嫁さんだったら」と「もしもボックス」の受話器につぶやけば、しずかちゃんとの結婚生活(性格の一致不一致から、しずかちゃんの料理の腕前、生活態度、性生活まで)をシミュレートできるわけだ。
ところで、反実仮想を現実化するためのテクノロジーのひとつが「呪術」だとすれば、「そのウソほんと」も「もしもボックス」も、ともにハイテク呪具ということになる。そんなものを「四次元ポケット」から取り出すネコ型ロボットに対して「あん、あん、あん、とっても大好き〜♪」なんて謡っちゃうんだからこわい。
私たちの精神生活において、この反実仮想の果たす役割は計り知れない。私はこれまで日本語、英語、アムハラ語、バンナ語という四つの言語を話し、読むだけだがフランス語とドイツ語も学んできたが、どんな言語にも「もし」とか「if」に相当する表現が存在している。面倒くさい運動会当日の朝に、「ああ、なんで今日に限って快晴なんだ。雨が降ってりゃなあ」と心の片隅で思ったとしたら、それは仮定法というものが存在するがゆえの心の動きといえる。
私は最近まで英語の教師をしていたので、一応書いておくと、英語には直説法、命令法、仮定法という3つの「法」がある。この場合の「法」とは「心の様子」のことだ。「海は大シケです」というのは直説法だし、「キャラメルマキャトゥのTallをひとつくれ」というのは命令法だし、「あのとき2−3で買っておけば万馬券だったのによぉ」と思えば、それは仮定法になる。
逆説的なことだが、仮定法の世界が成立するためにはまず、直説法の世界が成立している必要がある。「これが現実だ」という認識がないと、現実とは異なる世界を仮定する心も動かない。だから、仮定法の世界は、冷静な現状分析を基盤にしているともいえるのだ。もちろん「もしもボックス」にだって同じことがいえる。
もちろんここからは、「現実とは何か」という根本的問題が浮かび上がってくる。だが私たちは実際には、「現実は現実だ」という単純な認識に依存して生きているわけだから、仮定法の世界を構築するために「何をもって現実と認めるか」なんて難しいことを考える必要はまるで感じていない。
こんなヤヤコシイことを書いたのは、最近、この仮定法の世界に遊ぶことが多いからなのだ。自身の引っ越しや転職といった、大きな転機があったこともある。知り合いの一人が先月、突然死んでしまったということもある。さまざまな出会いと別れがこの数ヶ月に立て続けにあったということもある。とにかく、もとから空想好きな性格に輪をかけて、近頃の私は仮定法の世界にはまりこんでいる。
私が好きなSteely Danが昨年発表したアルバムに、「Things I miss the most」という、カラリと寂しい歌がある。歌詞を適当に日本語訳するとこうなる。(以下、原曲の歌詞を適当に端折って訳してます。)
「静けさは気にならない。一人っきりでいるのも平気だ。ファンキーな態度でやってきたし、争いごともたっぷり味わった。晩飯までのあいだ、カウチに身を沈め、ポスト紙をめくる。そうやっているとき、オレは、オレが人生で逃してきたもののことを思い浮かべる。会話、セックス、信じられる人間。アウディTTも、座り心地のいいイームズの椅子も。これらはみんな、オレが逃してきたものだ。」
やり残してきたことといえば、もちろんすぐに年度半ばでほっぽり出してきた学生たちのことが思い浮かぶ。良い具合に育ててきた高校3年生を、大学受験まで世話することができなかった。もちろん信頼できる人物に後任を託したので心配してはいないが、「自分で手塩にかけたかった」という思いは強い。
大学生たちについても同様だ。今年後半に取り上げると決めていたテーマ(異文化プレゼンテーションの政治学)は、私も楽しみにしていたし、この講義を楽しみに受講登録してくれた人やモグラー宣言してくれた人がいたのだから、「逃した」感は強い。
研究の面でも、手をつけただけで頓挫したもの、意欲が強かったが実現にいたらなかったものなどさまざまある。だが、この方面のことは、これからじっくり腰を据えてやればいいわけだから(すくなくとも、あと30年くらいは大学教員でいるつもりだし)、「逃してきたこと」というほどの感慨はない。
いま私は36歳だが、この年齢になってみると、もっとトライできたかなあと思うことも多い。たとえば私はパチンコとかスロットとか麻雀とか、その手の「遊び」に手を染めたことがない。学生時代にはみんなが冬になるとスキーに行っていたが(スキーとナンパが一緒だったわけだ)、いまに至るまで私はスキーをしたことがない。カラオケだって自分から行こうとは思わないし、もともと好きじゃない。
人からうらやましがられる直毛にパーマをかけたことがないし、ブリーチも染めも経験していない。こうやってふり返ってみると、みんながやっていること、ほとんどやってないんだよな、オレ。
すこし下品な話になるかもしれないが、風俗通いをするとか、セックスフレンドを持つとか、巨乳の女の子と付き合うとか、そういうのもなかった。かつて熱中した音楽とか写真とか、そういうので生活を立てるという可能性はもう無いだろう。結婚して子供をもうけ、仕事と子育てで忙しい日々を送るということも、現状では考えられない。(私は子供が苦手なので「子供が欲しい」とは思わないが、でも「もしも自分に子供がいたら」と考えることはある。やっぱり「もしもボックス」がほしい。)
他にも「ああ、あのとき、こっちじゃなくてあっちを選んでおいたらなあ」と、過去における人生の節目に思いをはせることも多い。考えてもしょうがないことかもしれないが、そういうことを、時間軸を超越して想念してしまうところに、他の動物とは違う人間の「人間性」があるのだ。
新しい職場に入り、広い研究室をもらい、山と積まれたカートンボックスをひとつひとつ開く。あらかじめ用意されていた大きな書棚3つは、すぐに満杯になった。他の棚にも資料やら機材やらを詰めていったが、これらもあふれてしまった。直接には研究に関係ないのに、捨てようと思っても捨てられなかったものがたくさんある。新しい住居は狭くて置く場所がないので、みんな研究室に持ってきた。こういうのは、かえって重荷なのだ。そしてこれからの私はこういう重荷を背負って、苦しい思いをしながら生きていくことになるだろう。
"You know, sometimes we're not prepared for adversity. When it happens sometimes we're caught short. We don't know exactly how to handle it, when it comes up. Sometimes we don't know just what to do when adversity takes over. And I have advice for all of us. I got it from my pianist Joe Zawinul who wrote this tune. And it sounds like what you're supposed to say when you have that kind of problem. It's called Mercy, Mercy, Mercy." (Cannonball Aderlay)
「お慈悲を」と乞う心は、仮定法の心である。そしていまの私は、天秤の一方に事務処理やら大学運営やら授業やらの直説法の世界を、もう一方に「もしもボックス」的な仮定法の世界を掛けて、かろうじてバランスを取っているのだ。こんな状態が、いつまでつづくか解らないし、いつまで耐えられるかわからないけれども。
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