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「.doc」をめぐる憂鬱〔My History of Macinotosh op.7〕

(Feb.21/2005)



今回のおしゃべりは結構長いので、覚悟のほどを。

職業柄、でもないだろうが、パーソナルコンピューターを操っている時間が長い。電子メールの読み書きやウェブ・ブラウジングのみならず、原稿執筆、資料の整理、ウェブサイトの管理など、もはやコンピューターなしでは仕事はできない。そのコンピューター自体は根幹にあたるOSにはじまり、常時多種多様なドライバやアプリケーションが作動することで、はじめてその存在意義を示す。

電源も入れられないまま放置されているコンピューターは悲しい。

いま私が使っているコンピューターは2台。一つはPowerbook G4というノートブックで、12インチのディスプレーを持つマッキントッシュの最軽量モデルだ。長崎に来てからは、電車のなかで原稿を書くということがなくなったが、それでも自宅と職場のあいだを毎日持ち運んでいる。これを手に入れてからちょうど1年たつ。ハードディスクの空き容量が少なくなって、この点ではすこし心細いが、この1年間、一度も故障せず順調に仕事をこなしている。

もう一台のコンピューターは先日買ったばかりのiMac G5である。こちらは研究室に置いてあり、おもに映像編集とフィルム・データベースの構築に使っている。シネマ・スタイルの20インチ・ディスプレーというのは本当にすごいもので、Adobe Photoshopなどをつかってみると、画面が広いということのありがたさをつくづく感じる。

以前使っていたiMac G3は自宅で、Powerbook G3(Pismo)とPowerbook 1400は研究室で待機中だ。もっとも1400はスペック的にこれ以上使いつづけるのは無理なので、今後はコレクションとして研究室に飾るつもりだ。



ところで、いまPowerbook G4のほうで使っているアプリケーション・ソフトウェアは、常時利用している主なもので20種類ほどある。なかでもどうしても手放せないのはKacis MynoteとOmni Graffle、それにSoftpress Freeway、ID for Weblifeだ。Kacis Mynoteは以前にも書いたように、執筆と資料整理に欠かせない秀逸なソフト、Omni Graffleは図表の作成に不可欠なソフトである。FreewayとIDは、いまのところ私にとって唯一の(笑)社会の窓(心のオアシスともいう)であるこのサイトを作るのに絶対に必要なものだ。

マッキントッシュを知らない読者も多いだろうから、 Windowsとは異なるマック的事情について、すこし解説しておく必要があるだろう。マッキントッシュの世界では数年前からオペレーション・ソフトウェア(OS)が一新された。それまでのOSはバージョン9.2.2までで、そのあとはまったく異なる思想にもとづいたバージョン10、すなわちOSX(オーエス・テン)に切り替わってしまっている。このバージョン9と10のあいだには、雪男と半魚人くらいの違いがあって、そもそもの根幹のシステムからして異なる。インターフェイスすらもがらりと変わったので、多くのマック・ユーザーは当初、この新しいOSにはすぐには馴染めなかった。

かくいう私もそうだったのが、いまではたまに旧バージョンを呼び出しても、使い方が思い出せなくてまごつくようになってしまった。「慣れ」というのはおそろしいもので、具合や使いにくさすら、慣れでカヴァー出来てしまうのだ。

Mac OSXというのは、バージョンが10.1、10.2、10.3と上がるたびに洗練され、動作スピードも速くなっている。いま売られている10.3(通称 Panther)は実にすばらしい。今年後半にはバージョン10.4(通称Tiger)が出るというが、私のいまのOS環境に満足している。

ところで、バージョンが9から10に切り替わったことで、大きな問題が発生した。この問題は、Mac OSXが2001年3月からすでに4年が経過してもすべてが解決したわけではない。その問題とは、アプリケーション・ソフトウェアをすべて入れ替えなければならない、ということだ。

OSXが発売され、アップル社が旧バージョンを市場から引き上げだし、新しく発売するハードウェアにも旧バージョンをインストールできなくしても、肝心のアプリケーションがそろわなければOSXの価値は減じてしまう。電源を入れてもらえない古いマシンと同じだ。OSXの場合、昔から使っているソフトをそのまま入れても動かせない。アップルは、バージョン10の中でバージョン9を動かし、その中で古いソフトを走らせるという一種の曲芸モードを用意していて(これを「クラシック環境」と呼ぶ)、私たちユーザーはその環境の中でなら馴染みのソフトウェアと出会うことができる。だがそれとて、しょせんは仮想的なものであって荒技を駆使していることには違いないから、昔とまったく同じことができるというわけではない。これのおかげで、私の本格的なOSX導入は3年ほど遅れた。

大まかにいって、コンピューターの使い方が確立され、その用途が特化しているプロの世界ほど環境を変えたがらない。マックのOSがバージョン10中心になっても、なかなか新環境に移行できなかったのは印刷と音楽の分野だと聞いている。業務環境をすっかり移行してやっていけるようになったのは、つい最近のことらしい。

その点、私のようなユーザーは新しい環境にさっさと移行してもそれほど問題がないように見える。印刷や音楽のようにマッキントッシュが業界標準となっている世界に生きているわけではないからだ(とはいえ、いまではこれらの分野でもWinが着実にシェアを広げているけれど)。

それでも、私のような者ですら、旧OSで確立された作業環境というものを持っていた。この場合「環境」というのは、仕事に必要なソフトウェアのセットということだが、それらのほとんどは、この1年ほどですっかり刷新された。Microsoft Officeの新バージョンによってメールと表計算はクリアしたし、Kacis MynoteもOSXに対応した。画像の加工や映像編集も問題ない。なかにはOmni Graffleのように、かつては存在しなかった新しいソフトウェアによって、仕事の自由度が増した例もある。

そんななか、いまだに解決できていない問題。それはワープロやエディタのような「文字うち」ソフトだ。旧OSのころ、私にとっての標準は「Nisus Writer」だった。現在、ナイサス・ライターはOSXに対応した新しいバージョンを売り出しているが、かつての軽快さはなく、編集の自由度も低い、まったくの別物である。かつて私はTalk8のなかで、「もし私からNisusを取り上げたら、仕事に重大な支障が生じることになる」と書いたが、本当にその通りになってしまっている。

日常的に書類を作ったり、原稿を書いたりする人間にとって、コンピューターに文字を打ち込むのは、空気を吸ったり食事をしたりするのと同じくらい根幹的なことだ。人間は言語にとって思考する。少なくとも文字言語である日本語で思考する私は、その思考を文字として脳から吐きだし、文字をいじくることで思考の体系化を狙う。論文を書くのも、講義のハンドアウトを作るのも、その点では変わらない。

そうして脳から取り出した情報は、しかるべくレイアウトされなければならない。私はひたすら文字をはき出すことで考えているのではなく、情報をデザインすることで考えているのだ。私たちが一片の紙にメモをとるとき、ひたすら文字列を連ねていくようなことは少ないだろう。あるアイデアの塊と、別のアイデアの塊をしかるべき場所に配置し、線で結んだり、円で囲ったり、イラストを添えたり、そういうことをしているはずだ。それがディスプレーのなかで自在にできてこそ、情報ツールとしてのワープロは意味を持つ。



ここらで、私がこれまで使ってきたワープロやエディタを思い出してみよう。



東芝ルポ

1988 年の秋頃に、バイトで勤めだした学習塾に置かれていた。当時はワープロ専用機では「かな変換」が当たり前だったので、キー配置を覚えるのに苦労した記憶がある。いま思えば、当時、ワープロは情報編集のためというよりは、活字入力&印刷のためのものとして使われていた気がする。授業のプリントなどを、手書きでなく活字で出力することで見栄えをよくするといった、そういう用途のために使っていた。

ある意味で画期的だったのは、フロッピーディスクだった。作った書類を保存して、それを再利用できるというのは衝撃的だった。

ただ、フロッピーの読み込みに時間がかかったし、文字変換もいまほど優れてはいなかったうえ、印刷に時間がかかりすぎた。

それに、ルポで書き込んだフロッピーは、ルポでしか読めないという問題もあった。これはルポに限らず、当時のワープロ専用機全般にいえることで、消費者は購入にあたって、富士通オアシスにするかNECの文豪にするか、はたまた東芝ルポにするか、それともシャープの書院を選ぶか、周囲の人びとの利用機種とのかねあいをはかっていた。

清書して印刷することを目的とした機械でありながら、印刷に時間がかかりすぎたのは致命的だったといえる。たしかA4版1枚で、1分くらいかかっていたような。そのうえフォントのアウトライン化が進んでいなかったので、いまでいうところの14ポイントくらいから、もうギザギザになってしまった。

いまのスタンダードから見れば、まったく使い物にならないルポだけど、当時はこれを使っている自分の姿を「かっこいい」と思っていた。あのころ作った書類は、いまどこへ行ってしまったんだろう。



パナソニック製ワープロ(機種名不明)

バイトで貯めたお金でパーソナル・ワープロを買ったのはいつだったろう? 1990年の夏の軽井沢セミナーでは、パンフレットや報告書の編集に使っていたから、その年の春ころに手に入れたのだろうか。町田の旧ミドリ屋の建物に入っていたOA機器の店で買ったことはしっかり覚えているのだが。

当時、ワープロといえば東芝、富士通、NEC、シャープ。そのなかのどれかを使うのが一般的だったのに、パナソニックなどというマイナーなワープロを買ったのは、ひとえに「印字がキレイ」だったからである。ワープロは清書のためのマシンだったから、印字がキレイというのはとっても大事なポイントだったのだ。あのころはフォントも統一されていなくて、メーカーによって少しずつ日本語フォントのデザインが異なっていた。

このワープロではレポートや卒論を書いたし、先述の軽井沢セミナーにかかわる文書をたくさん作った。大学院に入っても1年目のレポートはこれで作成していた。

1993 年にエチオピアに渡航したとき、私はこのワープロを持って行った。重量が7キロくらいあったので手荷物では持ってゆけず、別送便で送った。エチオピアの空港税関で「これは何だ? コンピューターか?」と聞かれて、同伴してくれた人が「これは電子タイプライターです」と答えていたのが面白かった。パソコンとタイプライターでは税額がまったく違ったらしい。エチオピアではこの「タイプライター」で大学宛の文書を作り、一人勝手通信「こんじょの」を作り、資料の整理もした。

1年数ヶ月の滞在ののち帰国するにあたって、青年海外協力隊の人に3000円で譲った。いまごろは、エチオピアのどこかで埃をかぶっているのだろうか。



一太郎Ver.5

エチオピアから帰国した私は、Windows3.1をインストールしたエプソン製のデスクトップ・コンピューターを買った。パソコン本体とディスプレイとプリンタを併せて40万円くらいかかった。そのとき一緒に買ったのが「一太郎Ver.5」だった。当時は一太郎が「業界標準」だったと思う。すくなくとも、 MS-DOSを積んだ東芝ダイナブックを使っていた人や、NECの98シリーズを使っていた人たちも、ワープロといえば一太郎という時代だ。私もとくに疑いもせずに一太郎を使い出した。

使い出してすぐに感じたことは「重さ」だった。とにかく動作が重い。慣れるにしたがって一太郎の操作性の良さはわかってきたけれど、動作のいちいちに一呼吸「呑む」ようなタイムラグがあって、ほどなくして、使わなくなった。



Microsoft Works

1994 年から99年にかけて多用していたソフトウェア。いまでいうところのワードとエクセルの簡易版にパソコン通信機能が一緒になった統合ソフトだった。私にとってMSワークスの第一の用途はパソコン通信だったけれど、ワープロ機能もとってもよかった。一太郎のような重さはなく、インターフェイスもスッキリしていて、初心者でも使いやすい。当時は、後述する秀丸エディタで打ち込んだ文字を、見栄えよく印刷するときにこのワープロ機能を使っていた。修士論文はこれで書いた。



秀丸エディタ

パソコン通信時代から、ウィンドウズ上での定番エディタとして知られていたのがこの秀丸エディタ。使い始めたのは1995年ころで、当時加入していた ASAHIネット(パソコン通信)から、2400bpsという、いまでは考えられないスピードでダウンロードした。このダウンロードがまたすごくて、5分割されたファイルを手作業で取り込むのだが、ダウンロードがはじめると、画面いっぱいに「文字化け」みたいな摩訶不思議な文字列が延々と流れ込むのだ。それをひとつひとつ貼り合わせ、展開してインストールしたのだ。いま考えても、よくあんな方法でインストールできたものだと思う。シェウェアだったので、銀行振り込みで4000円払った。

このエディタの良さは、まず動作が軽快だったこと。凝ったレイアウトがまったくできないかわりに、保存形式がテキスト・ファイルだったので、どんなマシンでも読めたこと。そしてアドインのマクロがたくさんあって、必要に応じて機能を追加できたこと、などいろいろあった。私は脚注マクロを好んで使った。

95年から99年にかけて、すべての論文をこのエディタで書いていた。文字を打ち込むことに特化していたので、余計なことを考えずに、ひたすら「思考の文字化」に専念できたのは、このソフトが最初で最後だった気がする。



Claris Works

1998 年3月から半年間エチオピアに行くことになり、マッキントッシュのパワーブック1400を購入した。このマシンに付属していたのがクラリス・ワークス(Claris Works)だった。このソフトウェアは「Works」という名が示すとおり、ワープロ・表計算・データベース・通信の四つの機能が一緒になった統合ソフトだ。クラリスのワープロはひじょうに使いやすく、99年以降、世紀をまたいで2001年くらいまではほとんどの原稿と講義資料をこのソフトで作っていた。その後も簡単な書類はすべてクラリスで作っていたので、このソフトには5年近く世話になっていた。



Yoo Edit.

上記のクラリス・ワークスはよくできたソフトだったが、私はウィンドウズ時代の秀丸のような、軽快なエディタを求めていた。文字装飾とか、レイアウトとか、そういうことができなくてもいい。ただ文字を打ち込むだけのソフトが欲しい。そこで1年あまり、このYoo Editを使っていた。

Yoo Editは旧OS時代のフリーウェアで、いろんなCD-ROMに収められていた。私自身はNisusとKacisに出会ったことですぐに使わなくなったが、いまでも愛用者はいるのではないだろうか。マックの世界にも無料で公開されている簡易エディタはたくさんあって、そのなかのどれを使ってもよかったわけだが、いずれもちょっと試してみただけであった。おそらく私のほうが、「文字さえ打ち込めればいい」という考えから少しずつ脱却していったのだと思う。



Kacis Writer(Kacis Mynote)

このソフトウェアをどんなジャンルに分類すればいいだろう。文字打ちをするだけではないし、プログラムを書くような用途にも使われないから「エディタ」ではない。かといって印刷を前提としたレイアウトができるわけではないからワープロでもない。このソフトはよく「アウトライン・プロセッサ」と呼ばれるが、厳密には異なる。たしかにアウトライン・プロセッサ的な使い方はできるし、私もそのように使うことが多い。たとえば章立てをいじくりながら論文の構成を考え、文章も書いてゆくといった用途には、このソフトはうってつけだ。にもかかわらず、これはアウトライン・プロセッサではない。

kacisscreen.jpeg



画面はこのTalkの原稿である。左のカラムに並んでいるのはいわば「目次」だ。その目次に対応する「本文」が右側に展開されている。いわば、このソフトは複数のテキストや画像をまとめてひとつの文書にしてしまう管理ソフトでもあるのだ。文章や図版の集合からなるひとつのプロジェクトを管理するという特質を捉えて、これをデキスト型データベースとして使うこともできる。

1年、あるいは半年の講義もこれを使うとひとつのファイルで済ませることができる。左のカラムで年間の講義の流れを確認しながら、右側にその内容を組み立ててゆくのだ。

Kacis Writerは当初、旧OS9でしか使えなかった。そのせいで私のOSXへの移行は遅れたわけだが、いまでは名前をKacis Mynoteと変えて、OSXでもしっかり使えるようになっている。おかげで私の仕事も、すんなり新しい環境へ移行できた。



Nisus Writer

ナイサス・ライターはマック・ユーザーには古くから知られたワープロソフトだ。日本ではかつて「Solo Writer」という名前ででていたようだが、もともとはアメリカのNisus Softwareが開発・販売しているものである。

大学の研究者でマッキントッシュを使っている人には、ナイサス・ライターの愛用者が多いらしい。そういう人たちからはあまりナイサスの悪口を聞かない。一般的にナイサスの特徴としては多言語に対応しているとか(アラビア語も入力できる)、検索機能が充実しているとかいわれているけれど、私にとってこのソフトをつかう最大のメリットは動作の軽さとカスタマイズ性である。

とにかく軽い。文字を入力するのにまったくストレスを感じない。図表や写真を張り込めば多少は鈍くなるけれど、それでもワードよりはずっといい。

カスタマイズについては、私はこんな使い方をしていた。まずはキー・カスタマイズ。たとえば「コマンド+オプション+b」で文字を黒くする、「コマンド+オプション+r」で文字を赤くする、ほかにもフォントをそっくり「平成明朝」にしてしまうキー操作などを設定していた。こうすればいちいちカーソルを動かす必要がない。

段落設定も自由だった。とくに講義の配布物を作るときには4段階くらいのタブを設定しておき、それぞれのスタイルにキー操作を設定しておく。そうすれば、わざわざルーラーのメモリをにらみながらカーソルを動かす手間も要らない。ナイサス・ライターにはけっこうバグがあって、そのせいか時々機嫌を損ねるようなこともあったが、このカスタマイズの自由さはほかのソフトにはない。

旧OSに対応したナイサスは、バージョン6.5で終了し、 OSXに対応したナイサスをずっと待っていたのになかなか出ない。1年ほど前にようやく新バージョンが発表されたのだけど、使い慣れたナイサスとは雲泥の差があった。昨年までは講義のハンドアウトのすべてをナイサスで作っていたが、いまはしぶしぶワードを使っている。早く、昔みたいなナイサスを復活させて欲しい。



Microsoft Word

ワードというソフトウェアが、グローバルなデ・ファクト・スタンダードになってしまったのはいつの頃だろう。97年に国際エチオピア学会が京都で開かれたとき、世界中から集まった論文はワードだけでなく、ワードパーフェクトやナイサスなどいろいろなフォーマットであったと聞く。それが全世界的にワード一辺倒になったのは、ウィンドウズそのものが95、98とバージョンを上げてスタンダード化したことと密接に結びついているだろう。とにかく、ここ5年くらいは、ネット上で飛び交うテキスト文書のほとんどは「ワード」になってしまった。ワードが好きでなくても、憎んでいても、とりあえず受け取った文書を読むためだけにワードを所有しなければならないのが、ワープロの実質的標準をめぐる憂鬱な現状である。

私自身はマッキントッシュ版のワードを、3つ前のバージョンから使っている。マック版Office 98はひどい代物で、当時使っていたiMac G3のハードディスクを攪乱してくれた。Office 2001のワードは動作があまりにも鈍くて、まったく使わなかった。添付ファイルを開くときだけ起動した。

現在はOffice v.X というのを使っている。そしてナイサスライターが使えない今となっては、泣く泣くワードを使いつづけている。そんな状態がかれこれ1年くらいだろうか。

ワードは、反応の鈍さと融通の利かなさをのぞけば、そんなに悪いソフトウェアではない。機能の多さという点ではナイサスもかなわないし、現バージョンはそれなりに安定している(OSXが堅牢だからなんだけど)。私は黒板に板書するときに、下線を引こうとすると意図的に「波線」を書くのだが、ワードで波下線を引けることを発見したときは、いささか心が躍った。ただ、波下線を引こうとするとマウスカーソルをつかって3ステップくらいをこなさなければならず、使っているうちにイライラしてくる。もしナイサスだったら、一発でできるように自分でカスタマイズできたはずなのだ。

ここ1年、講義の資料を編集するときにはワードを使ってきた。ワードを使っていると精神的な消耗がはげしいのだけれど、いろんな図版を貼り付けてレイアウトした書類は、それなりにきれいにできる。でも、そういう用途だったら、それ専用のレイアウト・ソフトウェアがあるわけだし(Adobe PageMakerとか)、わざわざワードを使う必要は本当はないのだ。

私の見るところ、ほとんどのワード・ユーザーは、ワードの可能性の1割も引き出していない。それなのに「みんな」(←その9割5分はウィンドウズ・ユーザーだ)がワードを使っているのは、「みんながワード・ユーザーだから」である。だからみんながワードを使うのだし、みんなが、パソコンと一緒に MicrosoftのOfficeを買い求めるのだ。そうして「.doc」という拡張子のついたファイルをやり取りできれば満足、そういうことなのだろう。

しっかし、この「.doc」というやつ。もとはMS Wordというローカルなソフトのものであって、それが世界共通言語みたいになってしまったのには、それなりの背景があるのだろう。

ワープロは清書のためのものとして受け入れられた。なかにはひたすらに文字を打ち込んで文章を作り上げたり、レイアウトをほどこしたりするヤツもいただろう。それがいまでは「.doc」であることが大事、になってしまったのだ。それはとりもなおさず、テキストを作成することが個人的な情報処理の営みや、印刷することを目的とするのではなく、配信・通知することを前提とするようになったからだろう。その意味では、電子ネット環境の整備と、「ファイルを添付する」という行為が一般化したことが、実質的標準としてのワード(そして「.doc」)の定着を推し進めたといえるのではないだろうか。



いま、大学内を毎日のようにとびかう文書は、すべて「.doc」だ。私はこれを、文書を他人とシェアするためのプロトコルだと思って使いつづけることにする。個人的な情報整理はKacisはじめ、気に入ったソフトウェアでやろう。講義資料は……? 最近になってAppleが発表した新ワープロ「Pages」を、いま、試している。こころみに、来月おこなうワークショップの配付資料をこれでつくった。慣れないせいで、まだまだ使いにくいし、ソフト自体もこなれていない。だけれど、脱ワードのための探求は終わらせたくないのだ。

だって悔しいでしょ、「.doc」の軍門に下るなんて。